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ぎ出すカエル



 02. 干からびたカエル


 果恵が働くホテル・ボヤージュは、総客室数280室のビジネスホテルだ。社長が無類の船好きで、ホテル名はそこに由来している。 県庁所在地に位置するこのホテルのメインの客層はビジネスマンだが、週末や夏休みなどの長期休暇中にはレジャー客も訪れるし、近年では海外からの宿泊客も増えている。
 大学は英文学科だったので、英語を活かした仕事をしたい。アルバイトはファミレスのホールスタッフだったので、接客業が向いてるかもしれない。 そんな些細な理由でホテル業界を目指したものの、超氷河期で採用凍結するホテルも多く、結局一年近く就職活動を続けて卒業間際にようやく内定通知を手にした。
 ―― それが、今から十年前の話だ。



* * *   * * *   * * *



「暇だねえ」
「そうですね」
 フロントに立つ果恵と菜乃花は、先程から何度目かの会話を繰り返した。正月が終わり一般企業では仕事始めを迎えたものの、出張に出るのはもう少し先のようだ。 いつもは当日予約の電話が鳴り続けるが、今日は朝から数える程しか電話をとっていない。

「そう言えば昨日やっと初詣に行ったんですけど、大吉出ましたよ」
「お正月は大吉を多めに入れてるって言うからね」
「もうっ、そんなこと言わないで下さいよ」
 明日の予約を確認しながら菜乃花が自慢げに報告してきたので、果恵がわざと話の腰を折ると、ぷうっと頬を膨らませて憤慨する。それが可愛いので、果恵はいつも後輩をこうやってからかうのだ。
「それで、おみくじを引いたら‘待人来る’ってあったんです。今年こそ彼氏ゲットですよ!」
 果恵にあしらわれることにすっかり慣れている菜乃花は、お構いなしに話を続けた。 二年前に入社してきた時には同級生の彼氏がいたのだが、お互い社会人になって環境が変わり、すれ違いが続いて別れてしまったらしい。
「なっちゃんならすぐできるよ。てゆか、この一年いなかったことが不思議だもん」
「忙しくて殆どコンパ行けなかったですから。でも、ここにいたって出会いは無いし、やっぱ積極的に動かないとダメだなと実感したんで、今年は頑張って飲み会とかに参加しようと思ってるんです」
 おっとりした雰囲気とは裏腹に、菜乃花はかなりの肉食系だ。そのギャップが面白くて、果恵がにやにやしながらファイトと言ってエールを送ると、菜乃花が大きな瞳でじっと見つめてきた。

「わたしは頑張りますけど、果恵さんはどうなんですか?」
 思わぬ返しに、来週末に宿泊予定の団体の手配書に目を通していた果恵が思わず顔を上げる。
「へ、わたし?」
「そうです、果恵さんです。お休みの日は寝てたっていう話しか聞かないんですけど、果恵さんこそ本気出して頑張って下さいよ」
 話の矛先を向けられた果恵は、後輩の真剣な表情に思わず苦笑いを洩らす。
「わたしはいいよ。三十路だし恐キャラだし、今更彼氏なんて無理だよ」
「確かに果恵さんは厳しいけど、それは仕事ができるということなんです。しっかりした女性が好みの男の人って、世の中にはいっぱいいると思うんですけど」
 必死でフォローする菜乃花に、やはり厳しいと思っていたかと内心思う。十年もいれば後輩を指導する機会は多く、どうしても厳しく接しなければならないこともある。 最初は悩んだけれど自分は叱り役に向いているような気がして、最近は恐い先輩というキャラを作って自虐ネタにしているのだ。
「果恵さんって、彼氏いない歴どれくらいなんですか?」
「えっと……、忘れちゃった」
 指を折って数え始めたものの諦めてへらりと笑いながら答える果恵を、菜乃花はまるで宇宙人でも見るかのように眺めた。

「果恵さん、一緒にコンパ行きましょう!!!」
「はい!?」
 意を決したように宣言した菜乃花を、今度は果恵が珍獣でも見るかのようにまじまじと見つめ返した。
「なっちゃん、それはありえないでしょ……」
 十歳も違う後輩とコンパなんて、想像しただけでいたたまれない。ただでさえコンパというものが苦手なのに、ましてやそんな必死感を出して参加するのは痛々しすぎるだろう。
「じゃあ、お客さんから探すのはどうですか?」
「菜乃花さん、ちょっと落ち着いて下さい」
 職場での出会いは無いと言った筈なのにあっさりと意見を翻した菜乃花を、果恵は呆れたように見やる。けれども菜乃花は、そんな果恵を無視して熱弁をふるった。
「確かに職場の人はみんな奥さんか彼女がいてるけど、お客さんがいるじゃないですか。遠恋になるというリスクはあるけど、常連さんなら週一くらいで泊まってくれる人もいるし、そんなに寂しくないですよ」
「いやいや、そういう問題じゃないし」
「浅井様とかどうですか? 気さくで優しいし、仕事できそうなイメージだし。果恵さんも前にタイプだって言ってたじゃないですか?」
「言ったけど、そもそも浅井様は結婚してるよ。この間チェックインの時に世間話してたら、もうすぐお子さんが産まれるっていう話になったから」
「ええー、そうだったんですか!? 不倫は絶対ダメだから、じゃあ他に誰がいるかな……」

 電話も鳴らず、誰もチェックインに来ないのを良いことに、フロントで菜乃花は眉間に皺を寄せて真剣にむむむと考え込んでいる。
「あのね、なっちゃん。確かにうちは常連の方が多いから雑談する程度に親しくはなれるけど、それ以上どうこうなる訳ないでしょ」
「確かにわたしたちの立場からアプローチするのは難しいかも知れないけど、絶対に果恵さんのこと良いなって淡い想いを抱いている独身のお客さんはいると思うんですよね」
「いるわけないでしょ。知ってると思うけど、わたしには大して権力無いんだから、おだてたってお給料もボーナスも上がらないよ」
「そんなの分かってますよー」
 口を尖らせながら、不満げに呟く。そんな顔も可愛いなあと、果恵は姉のような母のような気持ちで隣に立つ菜乃花を眺めた。
「じゃあ、お客さんの方から告白するのは問題無いだろうから、さりげなくわたしたちでそう仕向けたら良いんですよね。わたしが果恵さんの恋のキューピットになります!」
 さも名案だと言わんばかりの菜乃花の表情に、果恵は思わず脱力する。全く、どこからどう突っ込んで良いのか分からない。

「どうした岸本、腹黒そうな顔して」
 不意に事務所とフロントを繋ぐ扉が開いて、ひょっこりと宿泊マネージャーの小野が顔を覗かせた。
「マネージャー、この暴走娘を何とかして下さい」
「全然暴走なんてしてないですよ。ちょっとナイスアイデアが閃いただけじゃないですか」
「うわあ。全然話が見えないけど、きっと岸本がろくでもないこと考えたんだろうなあ」
 そう言いながら、小野が果恵にA4サイズの用紙を差し出してくる。どうやら来週泊まる団体のネームリストがファックスで届いたらしい。 ありがとうございますと声をかけると、そのまま上司は片手を上げてドアの向こうに戻って行った。

「わたしは、果恵さんに素敵な人が現れて欲しいと思ってるだけなのに」
 ぷんすかという擬音語が聞こえてきそうな様子で憤慨している菜乃花に、思わず果恵は吹き出した。
「もう、どうして笑うんですか!?」
「なっちゃんが可愛いなあと思って」
「からかわないで下さい!」
 本当のことなのになと、果恵は思う。他人のことにこんなにも一生懸命な菜乃花は可愛い。そんな彼女が本気を出せば、すぐに彼氏はできるだろう。
 けれども果恵はどうだろうか。三十歳をとうに過ぎ、仕事で厳しく後輩に指導するのはまさにお局そのもの。 休みの日の楽しみはもっぱら女友達と美味しいものを食べに行くことで、予定がなければ一日中家でごろごろしている。 接客中に素敵だなと思う人はいてもそれはあくまで目の保養で、最後に付き合っていたのはいつかと聞かれて即答できないくらいの年月が過ぎていた。
 きっともう、自分は恋をしないのだろう。そんな確信めいた予感が果恵にはあった。別に恋を拒絶しているわけではないが、積極的に求める程には自分の中での優先順位が高くない。 恋愛感情で心を乱されることのない平凡な日々が、この先もずっと続いてゆくのだろう。だから仕事だけはちゃんと頑張ろうと、それだけは心に決めていた。


 自動ドアが開く微かな音に、先程マネージャーに手渡されたファックス用紙を確認していた果恵は視線を上げた。黒のキャリーケースを引いたスーツ姿の男性が、こちらに向かって歩いて来る。
「いらっしゃいませ」
 笑顔を浮かべ、会釈をする。接客用の笑顔は、意識せずとも貼り付けることができる。
「予約していた筒井です」
「ありがとうございます。では、お手数でございますがこちらにご記入をお願い致します」
 レジストレーションカードを差し出し、名前と連絡先の記入を促す。
 外は冷えているのだろう。手袋をしていなかったその客は、自らの指に息を吐きかけ、悴んだ手を揉み解すようにしてからボールペンを手に取った。
 見たことある顔だな。そう思いながら、果恵は客の名前をパソコンに入力する。以前も利用してくれた客だろうか。 出張の度に利用してくれる常連客はもちろん覚えているが、一度か二度の利用だとさすがに記憶には残っていない。
「本日より三泊、禁煙シングル朝食付きのご予約で承っております。間違いございませんでしょうか?」
 はいと肯定する客に営業スマイルを向けながら、果恵はちらりとその風貌を観察した。年齢は果恵とほぼ同年代と思われる。中肉中背で、眼鏡をかけているせいか真面目そうな印象だ。
 宿泊履歴を調べたものの以前に宿泊した形跡はなく、果恵はとりあえず案内する部屋の鍵をキーボックスから抜き取り、手早くチェックインの準備を進めた。
「当ホテルは前精算でお願いしております。お先にご宿泊代を頂戴しても宜しいでしょうか?」
 軽く頷く男性に対し、料金を表示させた電卓とコイントレーを差し出す。そして代わりに、記入して貰ったレジストレーションカードを受け取り確認する。 整った字体は真面目そうな外見の印象とぴったりだと思いながら、改めて氏名を見やった。

 ―― 筒井聡。
 その瞬間、記憶の箱がかちりと開く。まさか、そう思いながら果恵は気持ちを落ち着けるようにそっと息を吐いた。財布から現金を取り出している目の前の客の顔を、そっと盗み見る。 本人かも知れないし、ただの同姓同名かも知れない。判断がつかないくらいに、果恵の中で‘彼’の記憶は薄れてしまっているのだ。
 チェックインを済ませ、その客はエレベーターに向かう。彼がエレベーターに乗り込んだあとも、果恵は閉まったエレベーターの扉をぼんやりと眺めていた。

 


2013/02/03 


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