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ぎ出すカエル



 01. 三十路のカエル


 心地良いまどろみの中、ピロリンと軽快な電子音が短く鳴った。眠りの淵からぼんやりと意識が覚醒する。
 あまり眠った気はしないけれど、もう朝が来てしまったのだろうか。重い瞼をこじ開けながら、果恵は枕元に置いている携帯電話にのろのろと手を伸ばした。
‘明けましておめでとう。お正月は一度帰って来なさいね’
 時刻を確認しようと携帯の液晶画面を見ると、そこに映されていたのは母から届いた新着メールだった。どうやらセットしていたアラームが鳴ったのではなく、メールが届いたことを知らせる音だったらしい。
(勘弁してよ……)
 果恵は携帯を放り出すと、布団を目元まで引き寄せるとぎゅっと瞼を閉じた。




「おはようございます。明けましておめでとうございます」
「おめでとう。今年もよろしく頼むな」
 いつも通りタイムカードを押すと、果恵はデスクでのんびり缶コーヒーを飲んでいる飯塚に声をかけた。
「じゃあ、引継ぎしようか」
「はい、お願いします」
 あっさりと年始の挨拶を終え、飯塚が簡単に前夜からの引継ぎを始める。引継ぎを受けて今日の予定を確認すると、果恵は先程入ってきた入口扉とは別の所に位置する扉を開き、事務所の外に出た。

「あけおめー」
「あ、佐々木さん。おめでとうございます」
 果恵の挨拶に振り返った内藤が、笑顔を返してきた。夜勤明けだというのに、何故そんなにも爽やかなのかと心の中で密かに問いかけてみる。たぶんきっと、若さのせいなのだろう。
「どうだった、はじめての年越しは?」
「いやあ、面倒でしたね。大して忙しくはないんですけど、到着がだらだらと遅くていつまで経っても仕事が終わらないっすよ」
「大晦日は電車が夜通し動いてるからね」
 内藤の報告に苦笑する。何度も経験している飯塚が適当なところで締め作業の指示を出しただろうが、入社一年目の内藤はいつもと勝手が違って戸惑ったかもしれない。 そう思いながら果恵がパソコン画面を確認していると、チンと音がして目の前にあるエレベーターの扉が開いた。

「おはようございます」
「チェックアウトお願いします」
「かしこまりました」
 若い家族連れに差し出されたカードキーを受け取り、部屋番号をパソコンに打ち込む。
「追加のご精算はございません。ありがとうございました」
 そう言うと、果恵は頭を下げた。隣で同様に内藤も頭を下げている。父親に抱かれた子供がきょとりとこちらを見ているので、微笑みながら手を振ると真面目な顔して手を振り返してくれた。

「あれ、そう言えば安西くんは?」
 自動ドアの向こうに仲良さげな家族が去って行くのを見届けると、思い出したように果恵は内藤に問いかけた。 昨晩の夜勤はアシスタントマネージャーの飯塚と入社一年目の内藤とアルバイトの安西の筈なのだが、その安西の姿が見当たらない。
「四階に行ってます。お客様がインロックしたらしいので」
 内藤が説明すると同時に、階段から下りて来る安西の姿が見えた。
「あ、佐々木さんおはようございます。てか、‘あけましておめでとうございます’ですね」
「おめでとう。安西くん、七時過ぎたから上がってね。これからデートなんでしょ?」
「ういーす」
 嬉しそうに安西が笑う。このあと彼女と初詣に行く予定らしい。 安西のシフトは夜十時から朝七時までだから、日勤の果恵たちが仕事終わりに遊びに行くのと要は同じなのだけれど、仕事終わりにあの人ごみの中に行くのが若いなあと思ってしまう。
「じゃあ、お先失礼します」
「お疲れー」
 仕事のあとに殆ど予定を入れなくなった果恵は、鼻歌でも歌わんばかりにご機嫌な様子で退社する安西の後ろ姿を、眩しい思いで見送ったのだった。

 ホテルの朝は時間が経つのが早い。チェックアウトをしながら、到着予定の部屋割りをしたり清掃スタッフへ出発済みの部屋の掃除を指示したりと仕事は山積みだ。 ビジネス客が大半を占める平日は早い時間にアウトが集中してバタバタするが、元旦の今日は皆ゆっくりしているのでそのあたりはまだましなのだが。
「果恵さん、おはようございます」
「おわっ、なっちゃん。もうそんな時間?」
「はい、そんな時間です。そして、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね」
 出勤したばかりの菜乃花はふんわり笑うと、サービス研修のお手本になりそうなお辞儀をする。果恵も後輩の真似をして、深々と頭を下げた。
「ふたりとも何やってるんですか?」
「内藤くんもよろしくね」
「あっ、こちらこそよろしくお願いします」
 客室からの内線電話を受けていた内藤が受話器を置くと、ぺこぺこと頭を下げあっている先輩ふたりの行動に突っ込みを入れる。 しかし結局は、マイペースな菜乃花につられるように彼もまた同様に頭を下げた。

「でも、こうして働いていると全然年が明けた感じがしないですね」
「内藤くんは夜勤だったから余計にそう感じるだろうね」
「わたしは一応、年越しそば食べて除夜の鐘聞いたんですけど、やっぱり実感はいまいちないですね」
 チェックアウトがまばらなので順調に今日の到着の準備が捗り、余裕が出てきた三人は雑談を交わしながら各々の仕事を進めてゆく。 新年を職場で迎えた内藤が、戻って来たルームキーを確認しながらしみじみとそう呟いた。
「俺も一応、夜食でそば食いましたよ。安西がコンビニに買いに行ってくれたんで」
「わたしも晩ごはんとして食べた。そして十一時には布団に入った」
 縁起物だがさすがに年を越すまで起きてはいられない。何せ今日のシフトは七時から四時の早番だから、五時半起きなのだ。
「わたしも晩ごはんに食べました。一応年を越すまでは起きて、十二時半には寝ましたけど」
 24時間365日稼動しているホテルでは、当然スタッフも24時間365日体制でシフトを回してゆかなければならない。 盆も正月も働くことが当たり前のホテルスタッフにとって、元旦も一年のうちの単なる一日に過ぎないのだ。

「でもさ、せっかく十一時に寝たのに母親のメールで起こされて新年早々寝不足なんだけど」
「うわ、いきなりついてないですね」
 果恵のぼやきに、内藤が苦笑を浮かべる。深い眠りに落ちる直前に起こされてしまい、それからは目が冴えてなかなか眠ることができなかったのだ。
「お母さんからあけおメールって、仲良いんですね」
「いや、いつもは来ないよ。たぶん最近帰ってないから正月くらい帰って来いって言いたかったんだろうけど、その時間は寝てるかも知れないって想像して欲しかったよ」
「きっと寂しかったんですよ。佐々木さんってご実家遠いんですか?」
「遠くないよ。電車で一時間ちょいだから。でも、いつでも帰れると思うと逆に帰らなくなるんだよね」
「そんなものなんですね」
 実家暮らしの内藤が、果恵の呟きに不思議そうに返す。そんなもんなんですよと、果恵は笑って答えた。



 この場所で正月を過ごすのも九回目か……。
 内藤が定時に上がり、菜乃花は客室に呼ばれてひとりになってしまったフロントカウンターで、ぼんやりと果恵はそう思った。 別に正月に休みたいという願望もなく公休希望を出すことがないので、大学を卒業してこのホテルに入社して以来、ずっと元旦はこの場所に立っている。
 果恵はカウンターの内側から、見慣れた景色をそっと眺めた。その装いはいつもと異なり、新年を祝う色に染められている。 ホテルの玄関には門松を飾り、果恵たちが接客しているカウンターの端には鏡餅をそなえ、ロビーを彩る花は正月らしく松や千両を中心としたアレンジとなっている。 BGMはいつものクラッシック音楽から琴の音色に変わっており、レストランでは通常の朝食バイキングのメニューに加え雑煮やおせちが振舞われている筈だ。

 けれども、子供の頃には毎年わくわくとしていたというのに、大人になるとともすればそのまま年を越したことをスルーしてしまいそうになる。 きっと新しい年を迎えた実感がないままに、今年も瞬く間に一年が過ぎて行くのだろう。 日々の生活の中で、小さな不満や小さな喜びや小さな悲しみを味わいながら、それでも変わらず過ごしてゆくのだろう。
 チンと音をたてて、目の前のエレベーターの扉が開く。降りて来た宿泊客らに笑顔で挨拶の言葉をかける。また、いつもと同じ一年が始まった。

 


2013/01/31 


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