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散らない日葵



17. 大人の女性、だけどかつては弱かったひと


 新幹線の改札脇にあるカフェは、多くのビジネスマンや旅行客で賑わっていた。律子が広い店内をきょろきょろと見まわしていると、奥の席に座っていたスーツ姿の女性が気がついて、こちらに向かって右手を振った。
「すみません、お時間いただいて」
「気にしないで。新幹線の待ち時間を持て余していたから、来てくれて逆にありがたいわ」
 律子が頭を下げると、冴子は何でもない風に微笑んだ。

 昨日東京の本社からやって来た冴子は、今日の午前中まで閉館するソレイユホテル本宮中央の従業員との面談にあたり、午後の新幹線で帰京することになっていた。ちなみに、一緒に来ていた人事部長は別件で広島のホテルにも用事があるらしく、つい先程こちらを発ったらしい。そんな話を聞きながらウェイトレスにミルクティを注文すると、律子は姿勢を正して頭を下げた。
「昨日はみっともないところをお見せして、すみませんでした」
 昨晩、律子はお世話になった先輩との久しぶりの飲みの席で子供みたいにぼろぼろ泣いた挙句、挨拶もそこそこに帰ってしまったのだ。
「いいわよ、別に。楽しかったから」
「はあ……」
 楽しかったのは飲み会の雰囲気だろうか。それとも、自分が見せた醜態だろうか。さすがに尋ねる勇気はなく、律子は気まずげに目を伏せた。
「矢野の方から連絡くれて良かったわ。わたしもあんたに話があったんだけど、壮吾といちゃいちゃしてるところを邪魔しちゃいけないかと、朝電話するのを躊躇っていたのよね」
「い、いちゃいちゃって……!?」
 さらりと言い放った冴子の問題発言に、律子の声が思わず裏返る。
「そんな恥ずかしがらなくったっていいじゃない。お持ち帰りされたって、今更からかったりしないわよ」
「されてません!!」
 その台詞が既にからかっていて、律子が真っ赤になりながら否定すると、冴子は楽しげに声をあげて笑った。

 昨日は感情のメーターのふり幅が大きい一日だった。
 辻内がここから離れた遠い町での就職を決めたことを知って動揺し、久々に冴子との仲睦まじい姿を目のあたりにしていじけて、それから予想だにしなかった告白を受けて驚いた。様々な感情を味わったまさに怒涛の一日で、けれどもそんな日の終わりに感じたのは、泣きたくなるくらいの幸福感だ。
 あれから辻内は大通りに出てタクシーを拾い、大丈夫だと言う律子を無視してタクシーに押し込んだ。そして自らも隣に乗り込み、彼女の住むワンルームマンションまで送り届けてくれた。だけど、律子が急展開に戸惑っていることもきっと見透かしていたのだろう。明日は日勤だから早く帰って寝るのだと笑い、律子を降ろすとそのままタクシーで帰って行った。
 昨日触れたのは、彼の気持ちと繋いだ手だけだ。だけどその気持ちは優しくて、指先は温かかくて。だから律子は、彼と並んでいられる方法を真剣に考えた。そうしてひとつの結論にたどり着き、東京に帰る前に時間が欲しいと、朝一番で冴子にメールを送ったのだった。

「ん、ちょっと待ってください。辻内課長は今日、日勤ですよね?」
 そこで律子は、はたと気づく。昨日公休だった辻内は人事の面談を行っておらず、今日の午前中に実施の筈だ。つまり、朝から冴子は辻内と顔を合わせているということで、律子への電話を躊躇ったなどというのはそもそもありえないのだ。
「あはは、やっと気がついた。矢野は相変わらず可愛いね」
「可愛くなんかないです」
「可愛いよ、昔からずっと」
「嬉しくないです。わたしは冴子さんのように、大人の女性になりたいんです」
 反射的にそう反論した律子は、未だ心の奥に潜んでいるコンプレックスを自覚した。かつて辻内は、目の前で微笑む大人の女性に惹かれていた筈なのに、その対極にいる幼い自分で本当に良いのだろうか。
「何言ってるの、馬鹿ね。わたしなんかよりも、年下のあんたの方が何倍も大人の女じゃない」
「え?」
「あんたは憧れの先輩に追いつく為に頑張って仕事を覚え、今は後輩たちに憧れられるようになった。少し話しただけだけど、三宅さんや浜崎さんがどれだけ矢野を慕っているのか伝わってきたよ。ずっと真面目に努力をしてきたあんたが、大人でないわけないじゃないの」
 赤いルージュを引いた形の良い唇を上げると、冴子はまるで姉のように優しく笑った。

 新幹線を待つ乗客にとって都合が良い場所に位置するこのカフェには、途切れることなく客が訪れ、若いウェイトレスがてきぱきと捌いている。活気溢れる店内で、やがて冴子はひとりごとのようにぽつりと呟いた。
「だけどわたしは、大人なんかじゃない。ただの狡い子供だったわ」
「どういう意味ですか?」
「矢野は気づいていたでしょう? わたしが壮吾を利用していたことを」
 律子はどう答えて良いのか分からず、ただ黙って冴子の目を見つめ返した。
「あの頃、ずっと付き合っていた彼氏と別れる寸前までいってね。そろそろ結婚かと思っていた矢先に彼に浮気の疑いが持ち上がって、結局はわたしの勘違いだったんだけど、彼の気持ちを取り戻したくて躍起になって。とった作戦が、彼に嫉妬させる為に壮吾と頻繁に飲みに行くことだったの」
 馬鹿でしょうと、自虐的に冴子が笑う。
「わたしも壮吾も酒が好きで、あいつにとってわたしは単に気の合う飲み相手だった。だけどわたしは大事な後輩を、自分の恋愛を都合良く進める為の道具として扱ったの。たまたま運良く自分の思い描いたとおりに事が運んで、彼と結婚することができたけれど、下手をしたらわたしは恋人も後輩も両方失うところだった。だけど当時のわたしは自分の恋愛に必死すぎて、ふたりにどれだけ不誠実なことをしたのかすら気づいていなかったのよ」

 大人に見えたこの女性も、醜い嫉妬を持て余したことがあったのか。本当なら冴子の行動に嫌悪感を抱く筈だが、律子は心のどこかで安堵する自分を感じていた。
「大人かどうかなんて見た目じゃないの。こうしてスーツを着てメイクをして、精一杯できる女を気取ってみても、わたしは大人の女じゃない」
 けれど本人がどう否定してみても、昔も今も変わらず落ち着いた雰囲気を漂わせる冴子は、やはり律子にとっては理想の大人の女性だった。
「大人ですよ。自分の過去を曝け出せる冴子さんは大人です。だからわたしも隠さずに、過去の醜い自分を曝け出しますね」
「醜い自分?」
 律子の言葉に、冴子が不思議そうに問い返す。
「冴子さんに嫉妬していた自分です。わたしは辻内課長のことを好きなくせに告白する勇気もなくて、仲の良い冴子さんのことをずっと妬んでいました。何も知らないくせに、陰で勝手なことも言いました。ごめんなさい」
 早口で一気にまくしたてると、律子は勢いよく頭を下げた。

「ふふっ」
 やがて頭上で吹き出す気配がする。
「やっぱり矢野は可愛いね。可愛い大人の女だわ」
 童顔で小柄な律子には、逆立ちしたって冴子のようなクールな雰囲気を出せやしないが、“可愛い大人の女”は目指せるのかも知れない。顔を上げた律子と冴子は視線を合わせると、どちらからともなく笑みを零した。
「可愛い後輩には、とっておきの情報を教えてあげましょう」
 やがて冴子は、悪戯っぽく笑いながらそう口にする。律子がオウム返しに尋ねると、少しもったいをつけながら冴子が説明してくれた。
「昨日の飲み会の前に、公休だった壮吾が確認したいことがあると言ってやって来たの。ソレイユホテル向陽駅前に求人は出ていないかってね」


   ***


 日が沈んだばかりの藍色の空には、宵の明星が輝いている。手持ち無沙汰の律子は、西の空にひとつだけ光る星に誘われるかのようにベランダに出て、そして待ち人が姿を現すであろう方角に視線を落とした。
 どれくらいの間、ぼんやりと街灯が照らす交差点を眺めていただろうか。やがて、こちらに向かって来る長身の影が現れる。果たして気づくだろうか。そう思うと同時に、薄闇の中で長身の影がこちらを見上げた。その瞬間、滑稽なくらいに心臓が跳ね、律子は大きくひとつ息を吐く。そうしてオートロックを解除する為に、エアコンで温められた部屋の中へと慌てて入って行った。

「お疲れさまです」
 インターホンが鳴る前にドアを開けると、そこには仕事を終えた辻内が立っていた。
「どうぞ上がってください」
「お邪魔します」
 ぎこちないままに辻内を招き入れると、そのまま座らせて律子は用意していたハンバーグを温め直す。手早くご飯と味噌汁をよそい、ハンバーグを皿に盛りつけると、律子は小さなテーブルを挟んで辻内の向かいに座った。
「手作りのハンバーグなんて、何年ぶりだろう」
 子供のように喜びながら手を合わせる辻内の様子にくすぐったい気持ちを感じながら、律子も手を合わせて箸をとった。
「うん、旨い!!」
 デミグラスソースがたっぷりかかったハンバーグを口の中へ放り込むと、辻内は即座に感嘆の声をあげる。その様子に、律子はほっと安堵の溜息を吐いた。
「何を作ろうかと迷ったんですが、課長はハンバーグが好きそうだなと思ってこれにしたんです」
「確かに好きだけど、何だかその言い方には含みがあるな」
「ちなみにハンバーグ以外の候補は、カレーとオムライスです」
「どれも大好物だ」
 どうせ嗜好が子供だよと拗ねる辻内が可愛らしくて、思わず律子は吹き出した。ふたりきりの空間はどこか気恥ずかしく緊張していたのだが、いつもの調子が戻ってきた気がする。今度はカレーかオムライスにしますねと言ったら、辻内は照れたようにそうしてくれと頷いた。

 人事課長である冴子に相談をもちかけた律子は、東京へ戻る彼女を見送ったあと、辻内に話があるとメールを送信した。ちょうど休憩中だったのだろう。すぐに電話がかかってきて、驚いた律子は思わず手の中のスマートフォンを取り落としそうになってしまった。
 辻内はどこかで待ち合わせて一緒に夕飯を食べに行こうと提案したのだが、自分が作るから家に来ないかと誘ったのは律子の方だ。正直、昨日の今日で自宅に招くのは引かれてしまうかと思ったが、律子はふたりきりでじっくりと話し合いがしたかった。辻内はソレイユホテル本宮中央の閉館と同時に引越すことが決まっており、この街にいるのはもう一ヶ月もないのだ。そんな慌ただしい状況で話し合わなければならないことはたくさんあり、恐らく辻内も同じ思いを抱いていたのだろう。
 はじめは躊躇する様子が伝わってきたものの、結局は、仕事が終わったら律子の住むマンションへ向かうことに同意してくれた。幸いにも昨晩送ってもらっていたので、彼はこの場所を知っている。あとは自分の決断を、辻内に伝えるだけだった。

「何か飲みますか?」
 手早く夕飯の後片付けをすると、律子は辻内にそう尋ねた。
「じゃあ、コーヒーを頼む」
「牛乳があるので、カフェオレにしましょうか?」
「むう、何だかことごとく子供扱いされている気がするな」
「じゃあブラックにしますか?」
「カフェオレでお願いします」
 別に子供扱いをしているわけではない。牛乳を電子レンジで温めながら、律子は思った。
「カフェオレが良いかなと思ったのは、わたしが課長をずっと好きだったからです」
 辻内の目の前にマグカップを置くと、律子は照れくさそうにそう告白した。
「疲れた時はいつも、休憩室でカフェオレを買うでしょう? 今日も仕事だったから、疲れて甘いものが飲みたいんじゃないかと思ったんです。そんな予想をしてしまうくらいには、課長のことをずっと見つめてきたんですよ」
 引かないでくださいね。冗談めかして笑うと、律子は自分もカフェオレを口にした。すると不意に、律子の小さな体が辻内に引き寄せられる。
「ああ、りっちゃんは可愛いなあ。もう離したくなくなる」
「ひゃっ! ちょっと課長、危ないです!!」
 不意に感じた辻内の体温に、心臓が破れるのではないかと律子は思った。マグカップを持ったまま抱き寄せられた彼女が真っ赤になって抗議すると、彼はごめんと謝りながらそれを取り上げ、テーブルの上に置いた。そうして、そっと唇を寄せる。

「離れません」
 カフェオレの味がするキスをゆっくりと交わしたあと、辻内の唇が離れた瞬間に、律子はそう宣言した。
「え?」
「わたしは辻内課長と離れたくないです。だから離したくないじゃなくて、離さないと言ってください」
「良いのか?」
 律子の懇願に、辻内は驚いたように目を見開く。既に自らの進む道を決めた律子は、辻内の目を見つめ返すとゆっくりと頷いた。
「離さない。俺はおまえを離さない」
 そう言うと、辻内は自分の腕の中に閉じ込めるかのように、律子をぎゅっと強く抱きしめた。やがて遠慮がちに、彼女の手が辻内の背中を抱きしめ返す。そうして律子は、自分の決意を静かに告げた。

「わたし、ソレイユホテル向陽駅前に異動しようと思います」

 

2017/06/09

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