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散らない日葵



16. 臆病な恋、おまけに身勝手な恋


 律子たちの行きつけの居酒屋のある路地の先には、公園がある。昼間は近隣のOLやサラリーマンが休憩する姿が見られるオフィス街の癒し空間だが、夜は人通りが少なく女性ひとりでは足を踏み入れ難い雰囲気だ。けれども公園を突っ切ると客待ちのタクシーが停まっている大通りに近道で、辻内と律子は黙って誰もいない公園の中を足早に歩いていた。

 数歩先を行く辻内の背中を、律子はじっと見つめながら追いかける。
 今度は受け止めると、先程辻内はそう告げた。何を、受け止めるというのだろう。肝心の内容が抜けた言葉に、律子の気持ちは大きく揺さぶられていた。酷い言葉を受け止めてくれるのか、それとも律子の想いを受け止めてくれるのか。けれども答を聞く前に賑やかな酔っ払いの集団が居酒屋から出て来た為に、辻内はさっさと公園に向かって歩き出してしまったのだ。
 公園内には桜の木が並び、春には薄紅色の花を咲かせる。しかしその季節にはまだ早く、今は花も葉もない枝が寒々しく月に向かって伸びていた。桜並木の終わりの地点、大通りが見えてきたあたりで、不意に辻内が足を止めた。

「俺は来月から、ホテル・トゥルヌソルで働く」
 ゆっくりと振り返ると、辻内はそう告げた。仄白い街灯の下で、ふたりの視線が交錯した。辻内が隣県にある高原のホテルで働くことは、既に知っている。律子よりも先に冴子に告げたのを、タイミング悪く耳にしてしまったのだ。
 言葉の代わりに、律子は白い息を吐き出した。そうしなければ、言ってはならない言葉を口にしてしまうと思ったからだ。好きな相手に自分の醜い部分を見せてしまう失態を、律子は二度と犯したくはなかった。



 辻内が春から九州に転勤になると上司から知らされたのは、冴子の結婚が決まって間もなくのことだった。
「矢野との師弟関係も終了だな」
 辻内が博多に発つ直前、律子ははじめて辻内とふたりきりで飲みに行った。彼は律子が入社した頃の懐かしい話をしながら楽しげに酒を飲み、そして別れ際にあっさりと彼女を突き放した。
「別に離れても、教官と弟子であることに変わりはないじゃないですか」
「何言ってるんだ。矢野はもう立派に独り立ちしているだろう」
「まだまだです。だから辻内先輩は、ずっとわたしの教官でいてください」
 夜道を並んで歩きながら、律子は必死に食らいついた。入社以来、辻内は指導担当として律子のことを可愛がってくれ、律子も辻内のことを慕っていた。けれどもふたりの関係は、ただそれだけだ。
「本宮中央には手本になる先輩がたくさんいるだろうが。相川さんだって新庄さんだって、冴子さんだって」
「冴子さんのことはお手本にしません!」
 宥めるように言った辻内の言葉に、けれども律子は激しく反応した。
「決めた相手がいるのに思わせぶりな態度をとる人を、わたしは尊敬できません。いくら仕事ができたとしても、人として最低だと思います」

「矢野」
 それは静かな声だった。いっそ怒鳴ってくれた方が良かったのに、彼は残酷なくらい冷静だった。
「辻内先輩、わたしは……」
「矢野は俺の自慢の弟子だ。これからは別のホテルで働くことになるけれど、お互い理想のホテルパーソンになれるよう頑張ろうな」
 そして律子の言葉は、優しい笑顔で遮られる。旅立つ先輩から後輩への、激励の言葉を添えられて。

 辻内壮吾という人を、律子はずっと尊敬し慕ってきた。彼のようになりたくて仕事に励み、彼に認められるような言動を心がけた。けれども律子はその夜、それまでのすべての頑張りを自分で台無しにしてしまった。
 たとえ実らぬ恋だとしても、せめて正々堂々と気持ちを伝えるべきだった。それなのに律子は嫉妬に駆られ、あろうことか冴子を勝手に悪者にしてしまった。冴子には婚約者がいて辻内の気持ちに応える気はないくせに、彼女が食事に誘ってふたりきりで飲みに行っていることが許せなくて、自分は一途に想い続けてきたのに単なる後輩としか見られていないことが哀しかった。要するに、嫉妬していたのだ。
 だけどそもそも、律子は辻内の口から本当の気持ちを聞いたわけではない。ふたりの関係について確認したわけでもない。部外者が傍からふたりを見つめ、勝手に妬んで勝手に詰った。それだけだ。何と醜く、何と愚かな恋の幕引きだろうか。世界で一番自分を良く見せたい相手に対し、一番見られたくない醜い気持ちを晒してしまった律子は、もはや大切に育ててきた想いを伝えることすら許されなかった。


   ***


「俺は今から、恐ろしく自分勝手なことを言うぞ」
 声を発しない律子に対し、やがて辻内はそう宣言した。誰もいない夜の公園は静かで、抑えた声の筈なのにひどく大きく響いて聞こえた。勝手なこととは何だろう。律子はそっと辻内を見上げる。けれど背後から照らす街灯のせいで影になり、彼の表情はよく分からなかった。

「俺には矢野が、必要なんだ」
 やがて辻内は、きっぱりとそう告げた。その言葉は一言一句しっかりと鼓膜に届いている筈なのに、けれども律子にはその内容の理解が追いつかない。やがて滑稽なくらい掠れた声で、律子はその言葉の真意を尋ねた。
「……それは、部下としてですか?」
 部下として、ホテル・トゥルヌソルで一緒に働こうと誘われているのだろうか。だから、他のスタッフに再就職先を紹介しながら、律子には何も言ってくれなかったのだろうか。もしそうだとすれば、今までの仕事に対する姿勢が認められたということで、それはとても嬉しいことだ。
「違う。それは理想だけど、残念ながらトゥルヌソルの求人はひとりだけなんだ」
「じゃあ……」
 期待しては駄目だ。律子は心の中で自分を諫める。だけど、それを抑えることはもはや不可能に近かった。律子は早まる鼓動を抑えるように息を止め、恐る恐る辻内の答えを待った。
「部下としてではなく、恋人としての矢野が欲しい」

 もしかすると、自分はまだ酔っぱらっているのだろうか。あまりにも辻内のことが好きすぎて、都合の良い夢をみているのではないのか。辻内が放った言葉に、律子はふわりと自分の体が浮遊するような感覚に陥る。すると本当に体が揺れていたようで、がしりと辻内に腕を掴まれた。
「離れた土地で働くことを決めておきながら告白するなんて、勝手なのは分かっている。だけどトゥルヌソルから誘いを受けた時、高いホスピタリティを持つホテルで自分を試してみたいと思ったんだ」
 以前、一緒に参加した旅行会社のフォーラムでホテル・トゥルヌソルの宿泊マネージャーと会った時、辻内は随分と熱心に仕事の話をしていた。トゥルヌソルが小規模なホテルであることを最大限に活かしてきめ細やかなサービスを行っていることに、強く憧れている様子だった。だから今回の誘いは彼にとって大きなチャンスであり、見知らぬ土地で新たな挑戦をすることは応援すべきことだと律子は理解していた。
「だけど、矢野のことも手放したくないんだ。博多にいた五年間のように、連絡をとらずに過ごすなんてことはもうできない。矢野がこの街を離れたくないのは知っているけど、このまま先輩後輩でも上司と部下でもなくなってしまうのは嫌なんだ」
「え?」
「気軽に友達や家族に会えないのは寂しいから嫌だと、前に越野に言っていただろう?」
 確かに以前、別のグループホテルに異動する気はあるのかと真理に尋ねられた際、そのように答えた記憶はある。その会話が、辻内に聞かれていたのだろうか。だけど律子が異動を選択肢に入れなかった理由は、住む街が離れたらもう二度と辻内に会えなくなると思ったからなのだ。
「俺はこの街から引越すことになるけれど、休みの日には会いに来る。あっちは求人が少ないけど、もしもついて来てくれるのならもっと嬉しい。上司と部下だからと告白を躊躇していたら、予想もしなかった展開で一緒に働けるのが三月末までということが決定して。本当はずっと告げたいと思っていたんだけど、あまりに自分本位な内容だから、なかなか言い出す勇気がなくてこんなタイミングになってしまった。この期に及んでこんなことを言うのは本当に勝手だと思っているけど、ソレイユホテル本宮中央が閉館したあとの俺とのことを考えて欲しいんだ」

 本当に勝手だ。そしてあまりにも臆病だ。
 律子について来て欲しいから再就職先の紹介を躊躇い、でもそれが身勝手だと分かっているから言い出せなかった。ふたりで飲みに行こうと誘われた二月のあの日に、きっと辻内はすべてを告げる決意をしていたのだろう。けれどもタイミング悪く職場でインフルエンザが流行してしまい、人手不足でそれどころではなくなってしまったのだ。
 だけど、もっと勝手でもっと臆病だったのは律子の方だ。自分の負の感情をコントロールすることができず、嫉妬で辻内や冴子のことを貶めた。そのくせ自分で汚した恋を後生大事に抱え、ずっと身動きがとれずにいたのだ。
「……あんな酷いことが言える人間なのに、わたしで良いんですか?」
 勇気を出して問いかけたものの、さすがに目を見て尋ねることはできなかった。すると、体を強張らせる律子を支える手に力が込められた。
「言わせたのは俺だ。もう二度と、あんなこと言わせない」
 そんなわけはない。醜い言葉を発したのは、律子の弱さのせいに他ならないのだ。それなのに辻内は彼女の過ちを受け止めるばかりか、あまつさえ自分のせいだと言ってのけた。足元に力が入らないくらいに、指先が震えるくらいに、様々な感情が体中を駆け巡る。

「ありがとうございます」
 やっとのことで、律子は感謝の言葉を呟く。けれど、その先には何も続かなかった。
 告げたい想いはいっぱいあるのに、それを表す言葉が見つからない。何よりも、どう答えて良いのか律子には判断できかねた。彼の告白は舞い上がるくらいに嬉しいが、あまりにも予想外の展開すぎて、自分がこの先どうすべきかの決断がつかなかった。
 辻内の傍にいたいけれど、お荷物にはなりたくない。調べてみないと詳しいことは分からないが、今でさえ転職活動に苦戦しているのに、ここよりも求人が少ない小さな町で果たして仕事が見つかるだろうかという不安があるのだ。

「八連勤で疲れているだろうから、今すぐの返事はいらない。だけど、連休の間にゆっくり考えて欲しいんだ」
 やはり辻内は、悔しいくらいに大人だ。ぽんと律子の頭を撫でると、そう言って優しく微笑んだ。
「はい」
 最善の道を考えよう。そう決意しながら、律子は深く頷いた。その様子に安心したような表情を見せると、辻内は彼女の手をとり、公園の先の大通りに向かって歩き出した。
 夜の空気は冷たく、体はすっかり冷え切っている。けれども律子は、触れ合った指先から伝わるほんのりとした温かさを、確かに感じていた。

 

2017/06/05

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