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散らない日葵



15. 醜い嫉妬、そのために吐かれた言葉


 あの梅雨の蒸し暑い夜以降、律子は冴子と会話をしている際の辻内の表情を盗み見る癖がついた。意識して見ていると、他の同僚と話している時と冴子と話している時の笑顔が違う気がするし、声のトーンも違う気がした。
 あれ以来、辻内と冴子は度々ふたりで飲みに行っているようだった。もちろんこれまでどおり同年代のグループでも集まっているが、ふたりだけでも出かけるようになっていた。別に隠す気はないらしく、良い店を見つけたら行ってみたいと冴子が辻内を軽い調子で誘うのだ。堂々としているので誰も付き合っているとは思っていないようだが、これまでたまに話題にのぼっていた彼氏の話を冴子の口から聞かなくなり、一方でどんどんふたりが親密になっているように見えた。

「冴子さん、結婚するんだって」
 先輩社員からそう聞かされたのは、あの梅雨の夜から半年が過ぎた頃、律子が入社して四年目の冬だった。
「結婚?」
「うん。年上の彼氏がいたことは、矢野も知っているでしょう? この間、冴子さんの誕生日にとうとうプロポーズされたんだって」
「それ、本当ですか?」
「こんな嘘、つく筈ないじゃない。逆に何故、矢野はそんなに驚いているの?」
 先輩社員は何も疑問に思っていないらしい。戸惑う律子に対し、不思議そうに問いかけてきた。
「ここのところ彼氏さんの話を聞いていなかったので、急展開にびっくりしただけです」
「何、別れたと思っていたの?」
「しー、内緒ですよ!」
 慌てて口止めすると、先輩は少し呆れたように笑った。
「確かに夏頃は、彼氏の仕事が忙しくてあまり会えていなかったみたいだね。付き合いが長いせいで逆に結婚のタイミングが難しかったみたいだけど、冴子さんももう三十だから、ちょうど良い区切りだったんじゃないかな」
 もしかして、自分は恥ずかしい勘違いをしていたのかも知れない。辻内のことを好きなあまり、仲の良い先輩後輩であるふたりのことを、勝手にフィルターをかけて見ていたのかも知れない。申し訳なく思うとともに、律子は内心ほっとしていた。もしもふたりが付き合っていたとしたら、冴子には到底敵わないからだ。



 それから何日か経ったある日、律子は辻内とインターネット予約専門の旅行会社が主催するフォーラムに参加していた。上司の指示ではじめて参加させてもらったのだが、色んなホテルの人たちと交流できたことも、講演会で旅行業界の最新の動向を知ることができたことも、どれも刺激的な経験だった。そして、仕事とは関係ないことなので口が裂けても言えないが、辻内とふたりで外出できたことが何よりも嬉しかった。
「初対面の人たちと話して、疲れただろう?」
 懇親会を終えて駅に向かう途中、辻内がそう尋ねてきた。
「あまり名刺交換をする機会がないから慣れていないし、難しい話にはついていけないし、色々と緊張しました」
 見栄を張っても仕方がないので、正直にそう白状する。すると辻内は、自分も同じだったと言いながら笑った。
「俺もはじめて参加した時は緊張した。でも、勉強になっただろう?」
「知らないことがいっぱいで、面白かったです。次は話についていけるよう、もっと勉強したいです」
「矢野は偉いな」
 別に偉くなんかない。頑張ろうと思えるのは、身近に目標となる人がいるからだ。憧れの人に認められたいという不純な動機から発した言葉を褒められて、律子は恥ずかしくなる。そんな後輩のことを頑張れよと励ましてくれて、単純な律子はそれだけで有頂天になった。

「それにしても、辻内先輩は顔が広いですね」
「この業界は意外と横の繋がりがあるからな。こういったフォーラムやセミナーに参加していると、自然と顔馴染みが増えてくるんだ」
 会場で辻内と一緒にいると、近隣ホテルの人たちが声をかけてきて、親しげに談笑していた。彼らは同じエリアで商売しているライバルではあるが、マーケットを盛り上げてゆく為に情報共有することも重要であり、たまに飲みに行ったりもしているらしい。何人もの知り合いを紹介されて、ホテルの中だけの狭い世界しか知らない律子には、辻内が今まで以上に眩しく見えた。
「でもまさか、ホテル・トゥルヌソルのマネージャーともお知り合いだとは思いませんでした」
 隣県南部の高原にあるそのホテルは、美しい景色と優れたサービスで人気を誇り、今回のフォーラムでもクチコミ評価の高い宿として表彰されていた。特に、周囲に広がる向日葵畑は圧巻だと評判で、夏休みの予約は例年早い時期から埋まるらしい。律子も一度泊まってみたいと憧れていたのだが、そこの宿泊マネージャーと辻内が親しげに挨拶を交わしていたのだ。
「うちの部長が昔、トゥルヌソルのマネージャーと別のホテルで一緒に働いていたことがあるらしくてさ。以前、紹介してもらったんだ」
「へえ、そうだったんですね」
 業界内の転職が盛んなこの世界では、このような繋がりはさして珍しくない。辻内の説明に、軽く驚きながらも律子は納得した。
「それにしても、三年連続クチコミ評価で一位だなんてすごいですね」
「本当にな。スタッフ全員が高い意識を持ってサービスしているんだろうな」
「わたしたちができないとお断りすることも、きっと応えているんでしょうね」
 ゲストの要望のすべてに応えるのは難しい。けれども彼らはきっと、最大限に顧客満足度を高める努力をしているのだろう。
「ビジネスホテルとリゾートホテルでは形態が異なるし、客室数も違うから一概には比較できない。俺らのようなチェーンホテルでは、会社のルールに縛られてできないこともある。逆にソレイユのように大きな組織だからできることもあって、それはそれで面白いけれど、あんな風にひとりひとりのゲストとじっくり向き合えるホテルもまたやりがいがあるんだろうな」
 そっと見上げると、辻内の横顔は真っ直ぐに前を見つめていた。
「俺らも頑張って、良いホテルを目指そうな」
 不意に視線が向けられる。その目はとても優しく、そして力強かった。
「はい、教官!」
「頼りにしているぞ、弟子」
 何と幸せな日なのだろう。長い時間一緒にいられて、色んな話ができて。辻内の仕事に対する考えに改めて触れて、律子はやはりこの人の背中を追いかけたいと強く感じた。この人と一緒に働くことができて自分は幸運だと、つくづくそう感じていた。


 やがて前方に駅が見えてくる。ちょうど駅前の交差点を渡る前に信号が赤になってしまい、ふたり並んで信号が変わるのを待つ。すると一瞬、隣に立つ辻内がぴくりと反応した。何気なく視線の先を追うと、そこには冴子が見知らぬ男性と腕を組んで歩いていた。思わずそっと、辻内の表情を盗み見る。すると彼は、まるで隣にいる律子の存在を忘れたかのように、ただ真っ直ぐに冴子の後ろ姿を見つめていた。

 ――ああ、やはり勘違いではなかった。

 ふわふわと浮かれていた律子は、頭から冷水を浴びせられた気がした。彼女は別に、辻内を好きなあまり冴子の関係について恥ずかしい勘違いをしていたわけではなかった。信号が青になった瞬間、辻内は何事もなかったかのように歩き出す。通りの向こう側を歩いていた冴子の姿は雑踏の中に消え、既に見えなくなっていた。けれど律子の瞼には、彼が赤信号の間だけ見せた切ない表情が焼き付いて忘れることができなかった。
 冴子と辻内は付き合っていたのか、それとも辻内の片想いなのか。それは律子には分からない。けれど、辻内が冴子に想いを寄せていることに間違いはない。気づきたくはなかったけれど、好きだからこそ気づくのだ。いつも朗らかな辻内にあのような表情をさせる冴子に対し、律子は苛立ちを感じずにはいられなかった。


   ***


「待てよ、矢野」
 律子は逃げるように店を出たものの、一瞬で辻内に捕まってしまった。普通にしていても長身の辻内と小柄な律子ではコンパスが違うのに、今の律子は酔っていて足に力が入らないから尚更だ。
「ひとりで帰れるので大丈夫です。課長はどうぞ戻ってください」
「大丈夫なものか!」
 声を荒げた辻内に、すれ違ったサラリーマンがちらりと振り返る。飲み会の会場となった居酒屋は、一本路地を入った隠れ家的な店で、周辺の人通りはさほど多くない。とはいえ時間はまだ九時前なので、まったく誰もいないわけではないのだ。

「離して……」
 ふらつく律子の腕を辻内が支えてくれたのだが、身長差がある為に、自然と彼の胸に抱き寄せられる形になった。くらくらと眩暈がする。精一杯の拒絶の言葉に力が入らなかったのは、誰かに聞かれて辻内が痴漢に間違われてはいけないという冷静な思考が微かに働いたこともあるが、動揺のあまり声にならなかったからでもある。
「嫌なら離すから、逃げるな」
 低くそう告げられ、強く掴まれていた手が離される。向き合うふたりの間に沈黙が落ちた。
「タクシー捕まえるから、待ってろ」
「大丈夫です。電車で帰れます」
「駄目だ、送る」
 ひとりで帰れるから、放っておいて欲しい。どうせ来月には、辺鄙な山の中にあるホテルに行ってしまうのだから、わたしのことなんて放っておいてくれて構わない。俯いた律子は、ふるふると首を振った。
「ひとりで帰る。そうじゃないと、わたしまた、酷いこと言っちゃうから……」
 律子は白い息と共に、そう呟いた。渇きかけていた眦が、再びじわりと濡れてくる。次の瞬間、律子の呟きを打ち消す言葉が降ってきた。

「矢野はそんなこと言わない。それに今度は俺が、きちんと受け止めるから」

 

2017/05/31

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