染乃の春は、幸福と共にやって来た。
「あらまあ、これだけ花が咲いていると何やら心が弾むわね」
蝶子の庭が色とりどりの花を咲かせた春のある日、かねてから満開の時分に庭を見たいと言っていた姑が彼女のもとを訪れた。あの花の名前は何かとか、自分はどの色が好きだととか、他愛のない話題で会話が弾む。少し霞んだうららかな春の空の下には、賑やかな笑い声が響いていた。
「雪寿尼様、奥方様、お茶が入りました」
桔梗の呼びかけに、ふたりは縁側に腰かける。どこか遠くで鳴く鶯の声を聞きながら、蝶子は湯呑みに口をつけた。
「そういえば、守之介さんの婚儀が決まったらしいわね」
ふと思い出したように話題にした雪寿尼に、蝶子は少々驚きながらも頷いた。雪寿尼の住まう寺で彼は正体を明かすこととなった為に、当然ながら彼女も守之介のことは見知っている。染乃と穂積の関係回復の立役者である守之介のことを、雪寿尼はいたく気に入ったらしい。どこから仕入れた情報なのか、彼が妻を娶ることを祝福しているようであった。
「蝶子さんはお相手と面識はあるの?」
「はい、何度かお会いしております」
「あら、そうなの。どのような方なのかしら?」
興味津々な姑の様子に、蝶子は何と答えて良いのか分からず曖昧な笑みを浮かべた。
栄進の死後、穂積国に重くのしかかったのは和孝の後継問題であった。けれどもそれは、意外な人物の意外な提案で呆気なく解決したのである。正直もう少し揉めると思っていたので、父から知らせを受けた時は随分と拍子抜けしたものだ。
「それにしても、あの守之介さんが次期当主になられるとは、よく決断なされたわね」
「本人はまだ納得していないようでございますが……」
次期当主として守之介が紅野家の養子になるようにと提案したのは、犬猿の仲であった筈の長吉郎であった。自身で死んだと工作していた為に、筆頭家老である田辺家の家督は弟が継ぐ手筈となっている。ならばいっそ和孝の養子になれば良い。それで万事上手く収まるとした長吉郎の提案に、さすがの守之介も驚愕して言葉を失ったそうだ。
「守之介さんのもとへ嫁ぐのは、その武藤殿の妹姫なのでしょう?」
「はい。薫子様は穂積でもっとも美しいと称えられる方にございます。わたくしも何度かお話しいたしましたが、話題も豊富で機知に富んだ方にございます」
「そのような姫君に見初められるだなんで、守之介さんは果報者ね」
武藤家の長女である薫子は、蝶子が染乃へ嫁いだのちに栄進の婚約者となった。もとは別の家への輿入れが決まっていたが、栄進の妻となる筈であった蝶子が伊織の正室となった為、急遽嫁ぎ先が変更となったのだ。しかしそれは、武藤家が薫子を使って栄進に取り入ろうとしているように見せかける為の策略であったという。
そもそも折り合いが悪かった守之介と長吉郎が手を組んだのは、守之介が自身を死んだと偽って染乃へ発つ前に、長吉郎のもとを直接訪ねて頭を下げたからだ。飄々とした男と堅物な男は水と油のような関係であったが、どうやら紅野家への忠誠心には互いに一目置いていたらしい。己が去ったのちにすべてを託すには長吉郎しかおらぬと守之介は判断し、守之介が長い間ひとりで探っていた真実を知って長吉郎は脱帽した。そうしてふたりは、守之介はこの世を去って長吉郎は己の利権の為に擦り寄って来たと、栄進にそう誤解させるように画策したのだ。
蝶子が事の次第のすべてを知ったのは栄進の死後であるが、彼らの尽力に感謝しつつも、もっとも気にかかったのは薫子のことであった。直前で嫁ぎ先が変更となり、栄進を欺く為の駒として差し出される。同じ女子として、同情を禁じえなかったのである。けれども薫子は、美しい容姿からは想像できないくらいに強かであった。実は彼女はずっと守之介のことを密かに慕っており、兄である長吉郎から栄進に嫁ぐようにと僅かながら事情を打ち明けられた際、あろうことか交換条件を出したのだという。
「話によるとなかなか芯が強そうで、一度会ってみたいものだわ」
「はい、わたくしもご紹介しとうございます。これからは、もっと頻繁に染乃と穂積の者が行き来できればと思うておりまする」
何となくであるが、雪寿尼は薫子と馬が合う気がする。なぜなら薫子は、すべて事が解決したあかつきには、守之介の妻となることを要求していたのだ。それを薫子の口から聞いた時、蝶子は驚きながらも感服してしまった。想いを叶える為に行動する薫子のことが、とても眩しく見えたのだ。
結局、約束どおり守之介は薫子を娶ることになったのだが、ならばいっそ紅野家の後継になれば良いと長吉郎が言い出した。代々家老職を務める田辺家と武藤家はそれぞれ系譜を辿れば紅野家に繋がっており、田辺家の守之介が次期当主になったとしても、その妻が武藤家の薫子であれば均衡は保たれるとみなしたのだ。
守之介は蝶子の子が跡を継ぐべきであると主張しているようだが、そうなれば蒼山家に干渉されると危惧する者も現れるだろうし、そこは微妙な問題である。亡き兄の意思を継ぐ守之介が穂積を治めてくれるのならば蝶子も安心で、もはや彼以上の適任者はいないと思われた。薫子の方は守之介と一緒になれるのであれば何も厭わないと、とうの昔に覚悟を決めており、忠孝に遠慮している素振りを見せる守之介を兄と共に説き伏せようとしているらしい。そんな薫子のことを守之介も憎からず想っているようで、似合いの夫婦になるであろうと密かに噂されているのを、知らぬは当人ばかりなりとのことであった。
「栄進殿は今頃、臍を噛んでいるのかしらね」
淡く霞む空を見上げながら、雪寿尼が呟く。
「さあ、どうでしょう。あのお方のお心は、わたくしには最期まで分かりませんでした」
栄進の死後、和孝らがもっとも懸念したのは、船越豪進がその死に疑問を呈して穂積に介入して来ることであった。けれども船越家からは、弔辞が一通届いたのみである。どうやら栄進は、病に罹り己の死期が近いことを匂わせるような文を、ずっと実家へ送っていたらしいのだ。
「不器用な人ねえ……」
雪寿尼が、呆れを滲ませながら嘆息した。義兄が本当に病に罹っていたのか、それとも己の策が失敗に終わる予感があったのか。それは誰にも分からないし、永遠に知る由もない。
茜子とのことも、武藤家との婚儀が決まった際に己の子を身篭った侍女を堕胎するように仕向けていたらしいが、その真意がどこにあったのか蝶子にはまったく理解できなかった。薫子との結婚が決まり侍女との子が邪魔になったのか、あるいは己が子の親となることを恐れたのか。茜子の言うように海原国でも穂積国でも居場所がなく孤独を感じていたのか、ただ単に支配欲を隠し持っていただけなのかも定かではない。今更そのことに思いを馳せてみたところで結果は何も変わらないが、茜子に対する想いだけは特別なものであって欲しいとそう願う。栄進の心の荒んだ部分が、茜子の存在によって少しでも癒されていたとしたら、それだけが救いであると蝶子はそう思っていた。
「おや母上、来ておられたのですか」
そのあとも蝶子が雪寿尼や桔梗との会話に花を咲かせていると、ふらりと伊織が顔を覗かせた。
「春の花が見頃だと蝶子さんから知らせを受けたので、見せて貰いに来たのです」
「そうでしたか」
「さすが伊織が蝶子さんの為に造った庭だけあって、なかなかの美しさね」
「は、母上!?」
満足げに笑う母の言葉に、いつもは穏やかに話す息子の声が裏返る。どう反応すれば良いのか分からずに、蝶子は黙ってふたりの様子を眺めていた。
「そして蝶子さんが仕立てた着物も、よう伊織に似合うております」
「雪寿尼様……」
今度は蝶子が狼狽する番である。どうやら姑は、息子夫婦をからかうのが楽しいらしい。
「そういえば、村の者たちに蝶子さんがあの反物を伊織の為に仕立てたと伝えたら、たいそう喜んでいたわよ」
「……」
雪寿尼の言葉に若夫婦は絶句する。この口の軽さであれば、自分たちの様子は逐一村の者たちに知れることになるのではないだろうか。姑が息子夫婦の仲が良いことを喜んでくれているのはありがたいが、当の本人としては恥ずかしくていたたまれない。互いに遠慮してなかなか気持ちを伝えることができず、雪寿尼にも散々心配をかけた夫婦であったが、もう大丈夫だからあまり騒がないでとくれと蝶子は密かにそう願った。
「母上、そろそろ戻らねば日が暮れるのでは?」
「おやまあ、おまえは母を追い返そうとする気ですか?」
「滅相もない。母上の道中を気にかけているだけですよ」
どうやらからかわれることに耐え切れなくなったのか、夫が母を露骨に追い返そうとする。そんなふたりの会話を聞きながら、蝶子はおやと思った。これまで雪寿尼と伊織が話している場に居合わせたことが殆どなかったのだが、どうも伊織が幼く見えるのだ。ちらりと傍らに控える桔梗を見やると、いつものことなのか苦笑いを浮かべていた。
「どうやら伊織は早く蝶子さんとふたりきりになりたいようだから、邪魔者はそろそろ失礼しようかしら」
「雪寿尼様、そのようなことは……」
「桔梗、母上がお帰りだ」
「い、伊織様!」
息子とやり合いながら帰り支度を始めた雪寿尼を引き止める為、蝶子は慌てて立ち上がる。すると、姑に優しく諌められた。
「まあ蝶子さん、そんなに急に動いてはお腹の中のややこが驚いてしまうわよ」
はいと素直に頷く蝶子の腹に、雪寿尼はそっと手を添える。まるで腹の中にいる赤子に暇乞いをしているようだ。
「また来るわね。それまで元気に育ちなさいな」
喧嘩のように聞こえた母子の会話だがどうやらそうではないらしく、伊織も雪寿尼もいつもと変わらぬ様子で挨拶を交わし、やがて雪寿尼は里の外れにある寺へと帰って行った。
「はあ、嵐が去ったな」
「伊織様、そのようなこと」
どかりと胡坐をかくと、伊織は疲れたようにそう呟く。蝶子がその言葉を諌めると、夫は少しだけ拗ねたような表情を見せた。
「母上はいつまでも私を子供のようにからかうから、苦手なのだ」
思わずふっと笑い声が漏れる。いつも大人だと感じていた夫が、今日は何だか身近に思えるのだ。
「何を笑うておる」
「だって」
「そなたも私を子供だと思うておるのか」
「そのようなこと」
両手を頬に添えられて、じっと顔を覗き込まれる。途端に鼓動が早まり、耳までが熱を持つのを感じた。
「伊織様こそ、わたくしを子供だと思うておられませぬか?」
逆に蝶子が小さく問い返す。結婚当初からずっと気になっていたことを、この際尋ねてみようとふと思ったのだ。
「子供には見えよう筈がない」
「わたくしは七歳も下にございます故、妹に見えたりすることは?」
恐る恐る尋ねると、伊織は額をこつんと合わせ、少し呆れたように呟いた。
「そのようなことを気にかけておったのか?」
「……」
「不安にさせておったか?」
気遣うような声音に、蝶子は慌てて首を振った。
「違います。ただ以前、伊織様は瑠璃様のことを年が離れているから妹のようだと仰いました。わたくしも瑠璃様と同じ年にございます故、そのように見えてしまうかと……」
夫の愛情を今更疑う気はない。けれども大人な伊織に対する引け目のようなものは、心の片隅に潜んでいるのだ。そう打ち明けたものの、話しているうちに何だか恥ずかしくなり最後は消え入るような声になる。妻の告白を聞き終えた夫には、長い溜息を吐かれてしまった。
「これだけ健気に正室の務めを果たそうとしておる女子を、幼いとなどと思えるわけがなかろう」
そう囁くと、伊織はまるで腕の中に囲うように妻を抱き締めた。
「そなたを喜ばせたくて庭に花を植え、そなたが私の為に縫うてくれたからこの着物を着る。単純で子供じみておるのは、いつも男の方だ」
「単純なのは女子も同じです。お慕いする方を想うて針を運ぶことがどれだけ幸せで、それをお召しになっていただけることがどれだけ幸せなことか」
藍色の着物を纏う夫の背中に手を回すと、蝶子は恥ずかしげにそう打ち明けた。それは野分のあとに、村人たちが雪寿尼を介して蝶子に贈ってくれた反物だ。彼らの感謝の気持ちを受け取ったものの、本来は当主である伊織に捧げられるべきものであり、蝶子は密かに夫のお付である藤に寸法を尋ねて着物を仕立てたのである。何よりも、宵の口の空の色を思わせるその深い藍色が伊織を思い起こさせ、夫の為に仕立てたいとそう蝶子は思ったのだ。
「ありがとう」
「わたくしの方こそ、美しい庭をありがとうございます」
夫の感謝の言葉に、同じ感謝の言葉で返す。すると伊織は、ぶつぶつと不満げにひとりごちた。
「母上はいつも余計なことを言う。庭のことなど、蝶子が喜んでおればそれで良いのに」
どうやら伊織は、蝶子を妻に迎える為にわざわざ用意したことを明らかにされたことが不満のようだ。先程、母親との子供じみたやりとりを見られて開き直ったのか、今日の夫は随分と子供ぽい。七歳も年上の夫に抱く感情ではないかも知れぬが、何だか可愛らしく思えて蝶子は思わず追い討ちをかけてしまった。
「わたくしは随分と以前から、伊織様が用意してくださったお庭だと存じておりました」
「え?」
絶句する伊織にくすりと笑みを漏らし、ずっと礼を言わず申し訳ないと詫びる。
「一体、誰がそなたに告げ口したのだ?」
「まあ、告げ口などと。皆わたくしたちのことを案じてくださっていたのです」
はっきりと伊織の名を聞いたのは随分あとのことだが、嫁いで来た当初から虎之新や雪寿尼は何やら匂わせていた。彼らは蝶子にこの庭を好きかと尋ね、好きだと答えればひどく満足げな表情を見せたのだ。
「して、我らを案じてくれていたという心優しい者は誰なのだ?」
「それは内緒にございます」
「そなたの母君は、父に秘密があるそうだ」
やがて妻から聞き出すことを諦めたのか、夫は抱き締めていた腕をほどくと蝶子の腹にそっと手を添えた。
「伊織様!」
咎めるような蝶子の口調に、やがて伊織が笑い出す。つられて蝶子も、くすくすと笑い声を漏らした。
蝶子の体に懐妊の兆候が見られたのは、この庭に花が咲き始めたつい先日のことである。従って、彼女の腹はまだ平らなままで見た目の変化は何も見られないのだが、夫は折に触れて我が子の存在を確かめるように妻の腹に手をやるのだ。
やがて夫の掌の温もりが、腹のあたりからじんわりと蝶子の心の奥へと染み渡ってゆく。そっと見上げると、優しげな視線とぶつかった。どちらからともなく顔を寄せ、まるで吸い寄せられるかのように口づける。その瞬間、花の香りを乗せた東風がそよと吹き抜けていった。
この世でたった一輪の、自分だけの花を蝶は見つけた。
欲がなく愚直で、決して華やかさはない。けれど蝶にだけは甘く優しい、藍色の花である。
そして愛しく想うその花こそが、蝶の居る場所なのであった。
< 完 >