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ぎ出すカエル



 23. 忘れられないカエル


 後輩から突然かかってきた電話に、その用件を勝手に想像して心配していた果恵だったが、受話器の向こうで菜乃花が発したのは果恵が忘れようとしている人物の名前だった。
「そう、なんだ……」
 思わず狼狽した果恵はぎこちなく返事を返したものの、そこには不自然な間ができてしまった。
「もう出張することは無いと言ってたけど、何かあったのかな」
 慌てて言葉を繋ぎ、平静を装う。けれども鋭い後輩には、恐らく果恵の動揺が伝わってしまっただろう。
「今回はプライベートらしいですよ。わたしがチェックインを担当したんですけど、以前何度か接客したことがあったのでお久しぶりですねって話しかけてみたんです。 そうしたら、今回はこちらに住む友人に会いに来たんですって仰ってました」
「今も連絡をとっている友達がいるみたいだから、彼に会いに来たのかな」
 たぶん堤と連絡をとったのだろう。交友関係の広い堤のことだから当時のクラスメイトに声をかけて、中学卒業以来はじめてあの町に戻った聡に対し、もしかすると同窓会くらいはやっているかもしれない。

「筒井様は、果恵さんが東京にいることをご存知ないのですね?」
 やがてひと呼吸おくと、菜乃花が静かに問いかけてきた。
「……うん。別に言う必要もないかなと思って」
「そうですか」
 何か言われるかと思ったが、果恵の返答に対し特に反応はなかった。
「果恵さんのこと、聞かれましたよ」
「え?」
「佐々木さんは今日はお休みですかって聞かれたので、九月から東京へ異動になりましたって伝えました」
 電話に出る為にテレビの音量を落としたので、狭い部屋の中はしんと静まり返っている。目の前のテレビの中では、何を喋っているのか分からないがタレントたちが楽しそうに笑っていた。
「筒井様、かなり驚いていらっしゃいました」

 知らせようと、全く思わなかったわけではない。
 聡には何度かホテル・ボヤージュを利用してもらい、一度は果恵の犯したミスで迷惑をかけている。それなのに東京転勤の挨拶もせず、失礼な奴だと思われただろうか。
「そっか。わざわざ連絡することもないかと思ったんだけど、今度メールで挨拶しておくよ」
「一応お知らせしておいた方が良いかと思いまして。お疲れのところ、突然お電話してすみませんでした」
「ううん、教えてくれてありがとう」
 淡々と告げられた内容は、まるで業務連絡のようだった。 一緒に働いていた時は、あれこれ言って果恵の背中をぐいぐい押してきた菜乃花だったが、聡が最後にホテル・ボヤージュに宿泊した時から果恵が連絡をとっていないことに対しては何も言わなかった。

「ところで果恵さん」
「何?」
「年が明けたら、遊びに行って良いですか? 東京にしかないショップ巡りをしたいなあとずっと思っていて。閑散期なら連休とりやすいし、今お金貯めているんです」
「おいでおいで。さすがにこっちも落ち着くと思うし、久しぶりになっちゃんと飲みに行きたいよ」
 ようやくいつもの調子に戻った菜乃花の嬉しい提案に、果恵を声を弾ませながら答えた。
「じゃあ、美味しいお店探しておいて下さい」
「了解! 引越して三ヶ月経つのに、全然お店を開拓できていないから頑張るよ」
 ひとつ楽しみができて急にわくわくしてくる。良い後輩を持ったなと、心の内で密かに感謝した。
「じゃあ、また連絡します」
「うん。なっちゃん、色々ありがとね」
 果恵がお礼を言うと、菜乃花が照れくさそうに小さく笑った。
「果恵さん、頑張って下さいね」
 やがて電話が静かに切れた。最後に菜乃花が発したエールは、仕事に対してなのか、それとも他の事柄に関してなのかは分からなかった。

 果恵は通話を終えて少し熱を持った携帯電話を掌で包み、小さく嘆息した。
 正直に白状すると、東京への異動を決めた時に聡の存在が全く影響しなかったとは言えない。 首都である東京の人の多さはもちろん分かっていたが、それでも、もしかすると奇跡的にまた会えるかも知れない。そんな愚かな考えが果恵の頭をもたげていたのだ。 けれども一方で、忘れなければならないことも自覚していた。このまま想いを募らせたとしても、報われる可能性はゼロなのだ。 だから果恵は、聡が最後にチェックアウトしたあの日の朝も、彼に自分が転勤することを告げはしなかった。
 新しい生活では日々忙しさに追われ、聡のことを思い出す余裕はない。大変な毎日だが、それだけは果恵にとって好都合だった。 だから、忙しい環境に身をおいていれば簡単に忘れられると思っていた。けれども実際は、後輩の電話に対しても上手く取り繕えないくらい未だに気持ちを引きずっていたのだ。

 ―― 彼女との幸せを願った上で、果恵の気持ちを伝えることは別に悪いことじゃないと思う。それで果恵は次へ進めるし……。
 不意に姉の言葉が耳の奥で響く。五月から少しも変わっていない状況を自覚し、すっかり身動きがとれなくなってしまった果恵は、手の中の携帯電話をじっと見つめた。



 赤と緑に彩られた十二月の街は、浮き立つような雰囲気に満ちている。どの店にもクリスマスツリーやリースが飾られ、クリスマスソングが絶え間なく流れていた。
「もうすぐクリスマスなんですね」
 寒さで心なしか早足になっている果恵の傍らで、同じフロントスタッフである女性が呟いた。
「つい先日お盆だったのに、もう今年も終わりだよ」
「わたし、十月以降の記憶があまりないんですけど」
 この日はエージェント主催のフォーラムが都内で開かれており、小野の指示で果恵と部下である女性スタッフが出席していた。 果恵の一歳下である彼女は中途採用組で、以前は全国チェーンの最大手である某ビジネスホテルで働いていたらしい。
「わたしもだよ。ハロウィンの飾りつけもされていた筈なんだろうけど、カボチャを見た記憶がないんだ」
「分かります。この前まで半袖着てた筈なのに、いつからコート着てるのか覚えていないんですよね」

 オープンして一ヶ月以上が経ち、マネージャーの小野も少しずつ現地採用のスタッフの能力が分かってきたらしい。 中途採用のスタッフにフロント以外の仕事を任せることも多くなり、最近は目に見えない軋轢が徐々に緩和されてきたような気がしていた。
「ああ、定時で帰れるなんて久しぶり!」
「残業まみれの毎日だったもんね。この一ヶ月、みんなよく頑張ってくれたよ」
 午前中は通常業務に就いていた果恵たちは、午後からフォーラムに参加していた。 終了が夕方なのでそのまま直帰して良いという許可をあらかじめ小野から貰っており、世間一般的な時間に帰れるということでふたりともどこか浮足立っている。
「それを言うなら佐々木チーフですよ。知らない土地に来て、知らない者同士が集まった職場をまとめて。誰よりも頑張っていたのはチーフだって、フロントスタッフは満場一致でそう答えますね」
「やだなあ、おだてたって何も出ないよ。みんなが頑張るから、わたしも頑張らざるをえなかっただけだよ。毎日朝から晩まで、鬼の形相でさ」
 自分のことにいっぱいいっぱいでなかなか部下のフォローができていない自覚があった果恵は、思いもよらない言葉に嬉しさが込み上げる。照れ隠しに茶化してみると、部下が思い切り吹き出した。
「鬼の形相ではないけど、確かにチーフのオーラはちょっと怖かったです。まあ、オープンから色んなトラブルがありすぎて、みんながぴりぴりしていましたからね」
「はあー、やっぱり怖いと思っていたか。自覚はあったんだけど、余裕なくてごめんね」
「チーフだけじゃないです。わたしもみんなも、常にイライラして余裕がなさすぎました」
 果恵の言葉を慌てて部下が否定した。彼女はイレギュラーな事態が起きても常に冷静で、既に何度も果恵たちフロントスタッフは助けられている。 ボヤージュでもそうだったが、東京でも良い人材に支えられている自分は幸運だと果恵は密かに思った。

「チーフ、良かったらこれから飲みに行きませんか?」
 駅が見えてきた所で、思いついたように彼女が提案してきた。
「ごめん、今日は予定があるんだ」
「そうですか、残念。オープン前に一度飲み会があっただけでなかなかみんなと飲む機会がないから、今日なら都合が良いかなと思ったんですけど」
「これからは今より早く帰れるようになると思うから、また誘ってよ。こっちに知り合いいないし、美味しいお店に連れて行って貰えると嬉しいな」
「じゃあ、遠慮なく誘いますね! わたしはずっと東京ですから、色んな所にご案内できると思います」
 忙しさを言い訳にあまり部下たちとコミュニケーションをとれなかったけれど、余裕ができたらもっと親睦を深めた方が良いかも知れないなと果恵は思った。 チームワークが大切な職場だから、仕事以外でももっとスタッフ間の会話を増やしてみよう。この街で働くと決めたのだから、地元の様々な情報も彼らに教えてもらわなければならない。

「じゃあ、わたしは待ち合わせしているから」
 駅の階段までたどり着くと、果恵は足を止めてそう告げた。
「これから、まだお仕事なんですか?」
「へ? 違うよ」
「すみません。さっき東京に知り合いがいないと仰っていたから、予定はてっきり仕事関係かと思い込んでいました」
 一瞬意味が分からず問い返した果恵だったが、彼女の説明に勘違いの理由が判明した。
「実はひとりだけ、こっちに住んでいる中学時代のクラスメイトがいるんだ」
「それなら何かと心強いですね。わたしは地元を出たことがないけど、誰も知り合いがいない土地に移るのは大変だと思うので」
 他意のないその言葉に、果恵は肯定するわけでも否定するわけでもなく、ただ曖昧に頷いた。
 やがて、彼女は軽く会釈をして改札へと向かって行く。人ごみの中に消えてゆく後ろ姿をぼんやりと眺めていた果恵は、白い息をひとつ吐くと、駅前のコーヒーショップに向かって歩き始めた。

 


2013/08/05 


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