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ぎ出すカエル



 21. 姉と母と父と、カエル


 八月最後の日も、鮮やかな青空に入道雲が広がっていた。
 開け放した窓から微かに吹き込む風は潮の匂いがして、果恵は思わず目を閉じる。窓の外では蝉が飽きることなく大合唱を繰り広げていた。
「果恵、ちょっと出ない?」
 家の中で一番風通しが良いリビングのソファに寝そべっていると、姉が声をかけてきた。頭だけ起こして声の方向を見やると、涼しげな麻のワンピースを着た姉が笑いかけていた。

 久しぶりに、果恵は実家に戻って来た。帰ることは事前に知らせていたので、特に驚かれることはない。 母親は朝食を食べていないと言う果恵にそうめんをゆがいてくれ、あとは適当に片づけておいてと言い残して父親と慌ただしく買い物に出かけて行った。
 洗い物を終えてソファに横になると、途端に睡魔がおとずれる。ここ二週間は、残業が続いた上に様々な雑務に忙殺されて、休みの日も家でゆっくり過ごす暇がなかったのだ。 だから久しぶりに穏やかな時間を手に入れた果恵は、蝉の声を聞きながらうとうととまどろんでいた。そんな果恵の睡眠を邪魔したのは、実家から自転車で二十分程の所に住んでいる姉だ。 彼女はにこやかに日傘を差し出すと、無言の圧力で夏の終わりの海へと果恵を誘い出したのだった。


 果恵が生まれ育った町には砂浜はない。ただコンクリートの堤防が延々と続いている。 海水浴場も漁港もこの町からは少し離れていて、果恵が思い浮かべる海のイメージは、堤防に打ちつける穏やかな波と頬を撫ぜる潮風と黙って釣糸をたれる地元の釣り人の姿だった。
「いつまでも暑いねえ」
 ハンカチでぱたぱたと煽ぎながら、姉の実恵がひとり言ちる。明日から九月だというのに、日中の気温はまだまだ真夏のそれだ。 何故こんなにも暑い最中に姉は出かけようと言ったのか果恵が訝しんでいると、彼女は迷うことなく堤防の近くにある簡素な建物に向かってすたすたと歩いて行った。
「果恵はレモンで良い?」
「うん」
 やがて建物にたどり着くと、ようやく振り返った実恵が尋ねてくる。いや、それは尋ねるというよりも、決定事項の形式的な確認のようなものだった。 シャリシャリと涼しげな音をたてて、目の前にかざされた容器に真っ白な氷が降り積もってゆく。そして今度は、これ以上は崩れてしまうという寸前まで高く積もった氷の上に、色鮮やかな蜜がたっぷりと回しかけられた。
「はい」
 果恵たちが子供のから変わらない氷屋のおばあさんに四枚の百円玉を渡すと、実恵は黄色のシロップがかかった方を果恵に差し出してきた。赤色は実恵のものだ。

「明日からは、東京かあ……」
 赤く染まった氷を口にはこびながら、実恵は誰にともなく呟いた。氷の山を崩しながら果恵は小さく頷く。口に運んだそれは、懐かしいレモンの味がした。
「まさか、果恵が東京に行くとはねえ」
 マネージャーの小野から東京で開業するホテルのオープニングスタッフとして異動しないかと打診されたのは、桜が舞い散る季節だった。予想もしなかった展開に嬉しさよりも戸惑いが、やる気よりも恐れが先に立って、果恵は断るつもりでいた。 けれども様々なことが重なり、このままで良いのかという考えが頭をもたげてくる。仕事に対する自信を失い、少しだけ取り戻し、やがて焦燥感と向上心が混ざり合ってゆく。
 結局、悩み尽した果恵は社内公募に挑戦することを決意し、社長との面接を経て、正式に九月から東京異動の辞令を受けたのだった。

 氷屋の脇にはビーチパラソルが備えられ、その下には白の簡素なテーブルと椅子が用意されている。果恵と姉はそこに腰かけ、海を眺めながら黙々と氷を口に運んでいた。
「一番驚いているのは、わたしだよ」
 そう言うと、果恵は複雑な表情を浮かべて小さく笑った。
「新しい環境を求めるよりも、変わらずコツコツやる方が性に合うと思っていたんだけどなあ。でも、三十過ぎてずっと同じところに留まっていられないからね」
 ふと未来を見つめた時に、不安になることはこれまでもあった。いつまで自分はこの生活を続けるのだろうと。 恋人がいるのならばいずれ結婚するだろうし、キャリアを重ねたいのならこのまま経験を積んで上がってゆけば良い。 でも、どちらにも当てはまらない果恵は、このまま与えられた仕事だけを黙々とこなして定年まで生きてゆくのかと、先の長さに途方に暮れることが最近増えてきたのだ。生きる為には働かなければならない。 それならばステップアップしてみても良いのではないか。受動的ではなく能動的に働いてみた方が、もしかしたら楽しいのかもしれないと、消極的だった果恵が一世一代の決意をしたのだった。

 辞令が下りると、果恵はこれまで抱えていた団体業務を菜乃花に引き継いでいった。果恵の異動を知って菜乃花は驚き戸惑っていたが、やがて覚悟を決めたようでどうにか引継ぎは無事に済んだ。 あとは実際にやりながら経験を積んでゆくしかない。
 ゴールデンウィークが明けると夏休み前までは閑散期だが、七月後半からは怒涛の団体ラッシュが始まる。 バスで三十分程の所にある県営のスポーツ施設で様々な競技の試合が行われ、それに参加するスポーツ団体の予約が多数入っているのだ。 その合間に東京での家探しもしなければならず、果恵は休みの日に二度東京に行き、既に異動しているマネージャーの小野にアドバイスをもらいながら何とかマンションの契約を済ませた。 もちろん引越しの準備もしなければならないし、そう頻繁には帰って来られないので友人たちにも会っておきたいし、残された時間は惜しむ間もなく過ぎ去っていった。
 そうして何とか全ての準備が整い、今晩は実家に泊って明日の午前中に引越し業者がやって来る手筈になっていた。

「栄転になるんだよね? ホテル業界に絞って就活してたしやりたい仕事に就いて頑張ってるなあと思ってたけど、果恵はあんまり上昇志向が強くないと思ってたからちょっと意外だったな」
「タイミングだよ」
 東京へはフロントチーフとして配属されることになる。その名の通り、現場スタッフのリーダーとなるのだ。 今後は管理職と現場の橋渡しをしながら、オペレーション的なことだけではなく数字的な面でマネジメントを学んでゆかなければならないだろう。
 ―― 与えられたチャンスを躊躇せずに掴むことが大事なんだろうな。
 異動を決めたのには、アシスタントマネージャーの飯塚の言葉が耳に残っていたというのもあった。実力があるにも関わらず、なかなか役職が上がらない先輩がいた。 今回の社内公募だって、チャレンジしたいけれど家庭の事情などで転勤ができない人もいたと聞く。
「わたしね、社会人になった時に大海原へ出たつもりでいたんだ」
「うん?」
「でもね、所詮は波のないプールでぱちゃぱちゃ浮かんでいただけなんだよ」
 学生という外界から守られた井戸の中から荒波に出て、それなりに上手く泳げていると思っていた。けれども実際は、井戸よりかは広いが、波のないプールで上司や先輩たちに守られていたのだ。
 けれども、そろそろ本物の海へ泳ぎ出さなければならないのかも知れない。このタイミングで大きなチャンスを与えられたのは、変われという意味なのだろう。

 潮風が吹きつけて、頭上のパラソルがぱたぱたと音をたてている。いつもは塩の跡を残しているのではないかというくらいぺたりと体に纏わりつく潮風も、今日は湿度が低くさらりと肌を撫ぜてゆく。
「ねえ」
 黙って聞いていた実恵が、やがて口を開いた。
「果恵は結婚する気はないの?」
 驚いて見つめ返すと、姉の真剣な瞳とぶつかった。
「この前、郁にも同じこと聞かれたよ」
 東京行きを友人たちに連絡すると、皆がそれぞれに送別会を開いてくれた。 仕事や子育てで疎遠になりつつあった学生時代の友人たちと久しぶりに飲み行き、今月はかなりの頻度で外食をしていた。 一番付き合いの長い郁子とは先週会ったのだが、果恵が結婚を諦めて仕事に生きることを選んだと思ったようで、今の姉と同じように尋ねてきたのだ。
「結婚はひとりではできないからね。今は、結婚する自分がちょっと想像できないよ」
「それは……」
 果恵の答に、実恵が何かを言いかける。半分くらいに減った氷の山を口に運びながら、果恵は姉の言葉の続きを待った。
「それは、わたしたちが結婚に対する希望を果恵から奪ったせいかなあ?」

 空は濃い青に塗りつくされ、白い入道雲がもくもくとせり出している。海は太陽の光を受けてきらきらと輝きながら、寄せては返すことを延々と繰り返していた。
「おねえちゃん?」
「わたしが離婚したから、やっぱり結婚って良いものじゃないって思ったんじゃない?」
 姉は伏し目がちにそう言うと、自嘲気味に笑った。
「違うよ」
「この前、お母さんが言ってたの。果恵には悪いことしたって」
 果恵の否定の言葉を無視して、実恵は言葉を繋いだ。予想しなかった話の展開に、果恵は戸惑ったように眉根を寄せた。
「お母さんが……?」
 不意に、かもめの甲高い鳴き声が響く。僅かな沈黙のあと、おもむろに実恵が口を開いた。

「果恵が中学くらいの時、お父さんとお母さん毎日ケンカしてたでしょ? いつも家の中がぎくしゃくして。果恵が大学入るくらいまでがピークで、それからは言い争うこともなくなったけど今度は冷めていたよね。 果恵は何も言わなかったけど就職したらさっさとひとり暮らしを始めて、あまり帰って来ないのもなかなか彼氏を作らないのも、自分たちのせいではないかってお母さんが言ってた」
「そんなことないよ。ひとり暮らしを始めたのは、シフト制で仕事が不規則だから生活時間がみんなと違って迷惑かけるかなと思ったからだし、彼氏がいないのは出会いがないからだもん。 作らないなんて親の欲目で、できないのが正解だっておねえちゃんも知ってるでしょ?」
「挙句にわたしが離婚したものだから、結婚って良いものだって言っても説得力持たなくなったもんね」
「おねえちゃん!」
 何故、今頃になってこんなことを言い出すのだろう。果恵はだんだんと腹が立ってきた。
 そうなのだ。良い子ぶって否定してみても、心の奥底ではずっとそう思っていた。今、姉が言ったことは全部当たっている。中学に入学したあたりから両親の夫婦仲が悪くなり、家の中の雰囲気は最悪だった。 いっそ離婚すれば良いのにと何度も思ったけれど、情が残っているのか世間体が悪いのかそれはせず、そこがまた腹立たしかった。 姉は当時大学生でアルバイトをたくさん入れてあまり家に寄りつかず、あの頃の果恵は就職してお金を貯めて早く家を出ることばかりを考えていたのだ。

「あの頃、お父さんは会社が売却されそうになっていっぱいいっぱいだったんだって。同じタイミングでおばあちゃんが入院してお母さんは看病に追われるし、ふたりとも余裕がなさ過ぎたって言ってた」
 祖母が入院していたのはもちろん知っているが、父の仕事の話は初耳だ。
「わたしも知らなかったんだけど、おばあちゃん一時は余命僅かだと宣告されてたみたいなの」
「嘘……?」
 今も存命の祖母だが、入院した時は年だからちょっと体調を崩しただけだと、確かそう母は説明していた。 会社が大変なことも身内が危ないことも知らされず、当時の果恵は大人たちに守られた小さなカエルだったのだ。
「あの何とも言えない陰鬱な空気が嫌で、バイトをいくつもかけもちして極力帰らないようにしていた。中学生の果恵は家に帰るしかないのに、それは考えないようにしていた。ごめんね」
「……」
「当時はお父さんとお母さんの言い争いが嫌で仕方なかったけど、考えてみればあの頃のふたりは今のわたしと五歳くらいしか変わらないんだよね。 それなのにそれぞれ重圧を抱えて、子供もいるし、大変だったのかなあって思ったんだ」
 言われてみればそうだった。自分の子供の頃の記憶にある両親の年齢に、今の自分がどんどんと近づいている。そう思うと、両親が完璧でなくても当然なのかも知れない。

 いつの間にか、手の中のカップの氷はなくなっていた。姉もどうやら食べ終えたようだ。
「おねえちゃん」
 果恵が呼ぶと、黙って海を眺めていた姉が視線を戻した。
「べえーってやって」
「はあ?」
 唐突な果恵の要求に実恵は目を見開いた。果恵が自分の舌を出して見せると、やがて姉が笑い出す。
「果恵の舌、黄色だ」
「おねえちゃんは真っ赤だよ」
 そう言って自らも舌を出した姉に、果恵が指さして笑う。それは姉妹が子供の頃、かき氷を食べるたびに繰り広げたやりとりだ。時には両親も巻き込んで、分かっているくせに自分の舌は何色かと聞いたのだ。


「おねえちゃん、わたし失恋したよ」
 まるで小学生に戻ったように笑い合ったのち、果恵がぽつりと洩らした。
「そう」
 規則正しい波の音に紛れて、優しく頷く姉の声が聞こえてくる。
「おねえちゃんが言ったことは、全部正解だよ。どうせ結婚しても上手くいかないなら、ひとりでいた方が傷つかなくてすむから気楽だと思ってた。 そのくせ幸せそうな友達を見ていると羨ましくて、一生独身でいるという決心まではできなくてずっと中途半端だった。そんな時、中学時代の同級生に再会したの。 わたしが必死で働いている姿を認めてくれて嬉しい言葉をかけてくれて、この人良いなあって心が揺れた。でも、その瞬間に婚約者がいることが分かったんだ」
「そっか」
 聡への気持ちを言葉にするのは、はじめてだった。忘れようと忙しさの中で頭の片隅に無理矢理追いやっていたのだけれど、何となく姉に聞いて欲しくなったのだ。 
「その彼に、果恵の気持ちは伝えないの?」
「そんなの無理に決まっているじゃない。婚約者がいるのに迷惑だよ」
「別れて下さいって言うわけじゃないんだから、別に良いじゃない」
 強く否定した果恵に対し、実恵があっけらかんと言い放つ。昔からそうだ。慎重派の妹に対して行動派の姉。 理性的な妹に対し直感で動く姉。姉の行動に驚きながらも、自分の気持ちにいつも正直な姉が果恵は昔から羨ましかった。

「果恵は、好きでもない人に好きだって言われたらどう思う?」
「うーん」
「困ったなって思う?」
「まあね」
 姉の質問に、果恵は苦笑いを浮かべる。気持ちはありがたいが、恐らく困惑してしまうだろう。
「全然、ちっとも嬉しくない?」
「そりゃあ……」
「ちょっとは嬉しいでしょう? なら、彼だって嬉しい筈だよ」
 まるで誘導尋問だ。呆気にとられている果恵にお構いなしで、奥手の妹に実恵は持論をぶつけた。
「彼女との幸せを願った上で、果恵の気持ちを伝えることは別に悪いことじゃないと思う。それで果恵は次へ進めるし、彼だって他の誰かに想われていたことがもしかしたら自信になるかも知れないじゃない」
「でも……」
「デモもストもない!」
 積極的な姉に引き気味の妹は、昭和テイストの突っ込みに更に引いてしまう。そんな果恵に対して実恵が何よと睨むと、ふたり同時に吹きだした。

 穏やかな波が寄せる堤防には、三人の少年が釣糸を垂れている。この町に生まれた男の子は無条件に釣りが好きで、親のお下がりの釣り竿を持っていた。 休みになると自転車で堤防に集まって、友人同士で何匹釣れるかを競うのだ。果恵たち女子は、たまに冷やかしで男子たちのバケツの中身を覗きに行ったりしたものだ。
「ねえ、果恵。わたしは失敗したけど、結婚を否定しないよ。チャンスがあればもう一回する」
 目の前の景色に懐かしさを感じていた果恵は、姉の爆弾発言に思わず勢いよく実恵の方へ向き直る。
「何よ、そのリアクション」
「いや、だって……」
 たじろぐ果恵を姉がじろりと睨む。どこまでも前向きな姉に対し本当に自分と同じ遺伝子を持っているのかと思いながら、果恵は親戚から姉妹そっくりだと言われる姉の顔を眺めた。
「お父さんとお母さん、毎週日曜日に近所の喫茶店にモーニング食べに行ってるの知ってる?」
「何それ?」
「お父さんが定年退職してから、週一でデートしてるの。この間はふたりで映画観に行ったらしいよ」

 ―― 絶対に結婚しなさいとは言えないけど、果恵には結婚したいと思えるような素敵な人に出会って欲しいと思ってるのよ。

 正月に実家に帰った時、母親が果恵にかけた言葉がふと耳の奥で響く。その時果恵は、母に聞きたくて結局聞けなかった質問があった。 どうせならば今晩聞いてみようか。そう果恵は思った。ついでに父親にも同じ質問をぶつけてみても良いかも知れない。ふたりは結婚して良かったと思うか、と。
 そして果恵は、網膜に焼きつけるように海を眺めた。波の音も、風の匂いも、生まれ育った町の全てを五感に刻むように、やがてそっと目を閉じた。

 


2013/07/29 


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