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ぎ出すカエル



 16. 揺れるカエル


 結局、翌日以降は聡と言葉を交わすタイミングがないままに、彼は二日間の滞在を終えてチェックアウトして行った。
「あーあ、行っちゃいましたね。次はいつ来られるんでしょう?」
 チェックインと同様にチェックアウトも担当した菜乃花が、自動ドアの向こうに消えてゆく聡の後ろ姿を眺めながら果恵の隣でぼやく。 聡がフロントにやって来た時、果恵はちょうど客室からの内線電話を受けている最中だったので軽く会釈をしながら見送っただけだ。
「五月にもう一度来る予定らしいよ」
「そうですか……」
 さらりと答えた果恵の台詞を、返却された鍵をキーボックスに戻しながら菜乃花が聞き流す。やがてたっぷり五秒が経ったあと、ものすごい勢いで彼女は果恵の方を振り返った。
「果恵さん、何故筒井様の今後の予定を知ってるんですか!?」
「本人から聞いたから」
 大きな瞳をきらきらと輝かせながら尋ねてくる菜乃花に、果恵はわざと何でもないことのように答えた。
「昨日は果恵さん、殆どフロントには立っていないですよね。いつの間に聞いたんですか?」
 四月から新しい仲間が増え、フロントは若いスタッフを中心に回している。 もちろん果恵もフロントに立たなければならないが、週に一日程度はフロントから外れて団体業務に専念できるシフトを作ってもらえるようになっていた。 それが昨日であり、菜乃花の休憩中に新入社員のサポートについていた以外はずっと事務所内にこもっていたのだ。
「一昨日に聞いた」
「一昨日って、チェックインに来られた日じゃないですか?」
「そうだよ」
「果恵さーん、もったいぶらないで下さい!!」
 菜乃花の知りたがっている内容は分かっていたが、面白いので敢えてのらりくらりかわしていると、とうとうしびれを切らしたように抗議してきた。

 チェックインのピークは既に過ぎており、フロントは閑散としている。今日到着する海外からの団体の最終チェックをしながら、果恵は食事をすることになった経緯をかいつまんで説明した。
「すごい、偶然ですね! あの調子じゃ絶対に果恵さんは誘わないだろうなと思ったので、わたしが一肌脱ごうとしてたんですけどいらぬお世話でしたね」
「いや、脱がなくて良いから!!」
「やだなあ果恵さん、冗談ですよ」
 さらりと恐ろしいことを言う後輩に、慌てて果恵が釘を刺す。にこにこと笑う菜乃花の台詞はとても冗談に聞こえず、果恵はあの時に偶然聡に会えたことを心から感謝した。
「で、楽しかったですか?」
 菜乃花が作業の手を止めて尋ねてくる。
「楽しかったよ」
 何故か嬉しそうな菜乃花の視線が照れくさくて、目を逸らしながらも果恵は素直に肯定した。
「中学時代は全然話さなかったから会話が続くか心配だったけど、予想以上に楽しかった。懐かしい思い出話がいっぱいできたしね」
 果恵がそう答えると、チンと音をたててエレベーターの扉が開いた。降りて来た常連客に、果恵と菜乃花は揃っておはようございますと声をかけた。



「インテリ眼鏡くんと飲みに行ったんだって?」
 一時に出勤してきた遅番の安藤に引き継ぎを済ませて果恵が休憩室に入ると、既に食事中の由美が開口一番に尋ねてきた。 菜乃花とは同じフロントなので休憩が重なることはないが、部署が異なる由美とはたまに一緒になる。
「由美さんとなっちゃんのホットライン、最近情報が早すぎやしませんか?」
 先程までずっと一緒にフロントに立っていた筈なのに、いつの間に事務所内にいる由美に報告しに行ったのだろう。 果恵が呆れたように見やると、由美は素知らぬ顔で味噌汁をすすった。今日の賄いのメニューは唐揚げ定食のようだ。
「じゃあ、近々飲み会しないとね。最終週の月曜か火曜に旦那が大阪へ出張に行く予定だから、果恵と菜乃花のシフトが合えば飲みに行こうよ」
「わたしは良いですよ。‘じゃあ’の意味がイマイチ分かりませんが……」
 このタイミングでの飲み会は、果恵を酒の肴にする気満々だろう。果恵はいじられないように対策を練らなければと心に決めながら、由美の提案に頷いた。

「そう言えば、読んだ?」
 不意に、テーブルの隅に置かれている経済誌を見やりながら由美が尋ねてきた。
 飲みの席で菜乃花とふたりがかりで攻撃するつもりなのかも知れないが、もっと色々と聡のことを突っ込まれると思っていたので少し拍子抜けだ。 内心ほっとしながら、果恵は由美の問いに答えた。
「一応。扱い小さかったですね」
「まあ、こんなものでしょ」
 自社が取り上げられたページを開きながら、果恵は少し不満げに答えた。東京にホテルが開業するまで間もなく半年ということで、最近はメディアに取り上げられることも増えてきた。 けれどもローカルチェーンということもあり、業界誌ではそれなりに大きく取り上げられたものの、ビジネス誌での扱いは地味だった。
「社内公募、誰に決まるんだろうね」
 唐揚げを頬張りながら、ひとごとのように由美が言う。
「さあ、どうでしょうね」
 味噌汁をすすりながら、果恵は小さく答えた。
 彼女がマネージャーの小野に東京行きを打診されたのは、約二週間前だ。あれ以来、果恵は何度も異動について考えてみたが、結局出した結論は自分には荷が重いということだった。 小野は明言しなかったが、もしも果恵が東京に異動するとなると恐らく昇格ということになるだろう。見知らぬ土地で、これまで以上に仕事の責任を負う。 確かにホテルの開業に携わるということは魅力的ではあるが、上司の期待に応えられる自信はなかった。正直、小野が評価してくれたことは嬉しかったし、尊敬する上司のもとで働きたいという気持ちもある。 けれども新しい環境に飛び出す勇気までは、果恵には持てなかったのだ。
 公募の締切は四月末までだが、果恵は近々上司に断りの返事を入れるつもりだった。

「東京に異動になったら、インテリ眼鏡くんとの関係が近づくかもよ」
 不意に、由美が爆弾を投下する。予測していなかった分破壊力は抜群で、ぐほっとはしたない音をたてて果恵はむせた。慌ててグラスの水を煽り、涙目で由美を睨む。
「由美さん、突然何を言い出すんですか!?」
 あの日、酔った頭で浮かれて考えたことと同じことを言われ、激しく動揺してしまった。何とも言えない恥ずかしさが湧き起こる。
「ごめんごめん、冗談だって」
 そう謝りながら、お詫びだと言ってプチトマトを果恵の皿に入れてくる。
「お詫びって、由美さんトマト嫌いなだけでしょ」
「だって果恵、トマト好きじゃん」
「好きですけど……。そもそも、そんな不純な動機で応募したって受かるわけないじゃないですか」
 わざと呆れたような表情を作ると、果恵は大袈裟に溜息をついた。それは由美に対してではなく、自分に言い聞かせる為の台詞だった。
「だから冗談だってば。果恵は真面目なんだから」
 そう言うと、今度は唐揚げを果恵の皿に移してきた。唐揚げは由美の好物なので、これは苦渋の決断だろう。果恵が即座にその唐揚げを口に運ぶと、呆気にとられていた由美がやがて笑い出した。

「東京の話は別にして、果恵はもっと自分に自信を持って良いと思うよ」
 笑いながら果恵が唐揚げを咀嚼する様子を眺めていた由美が、やがておもむろに口を開いた。先程までとは打って変わって真面目に語る由美に、果恵はどう答えて良いのか分からず黙り込む。
「謙虚なのかも知れないけど、果恵は自己評価が低い気がするんだよね」
 別に果恵だってそこまで自分が仕事ができないとは思わない。これまでプライドを持って仕事に向き合ってきたつもりだし、それなりの仕事量をこなしてきたという自負もある。 けれども、まだまだ至らない点はたくさんあるし、何よりもつい先日大きなミスで職場全体に迷惑をかけたばかりなのだ。
「ミスを気にするのは分かるけど、あれはもう終わったことだよ。果恵は自分でできる限りのリカバーをしたし、充分過ぎるくらい反省もした」
「でも……」
「もちろん、もう一度同じミスをしたらタダじゃおかないけど、ひとつのミスばかりを引きずるのも良くないと思うよ。周りが評価してるんだから、もうちょっと自信持ちなって」

 由美の台詞に、果恵が考え込む。彼女は優しいからそう言ってくれるけれど、その言葉に甘えてしまうのはどうだろう。果恵が逡巡していると、小さく溜息をつきながら由美が口を開いた。
「じゃあ、果恵が安心するニュースを発表します」
 そう言って、そこで言葉を切る。何のことだろうと果恵が由美の顔を見つめると、もったいぶったように彼女は口を開いた。
「本日、シマザキフーズより九月の研修の予約を頂きました」
「本当ですか!?」
 由美が言い終わらないうちに、果恵が身を乗り出して聞き返した。
「本当です。例年と同様、新入社員のフォローアップ研修が二日間の予定です」
 わざとすまして、由美が答えた。シマザキフーズへは営業の丸井が謝罪に出向いているが、果恵はきちんと謝ることができていない。 当日に担当者の姿を見かけて声をかけたものの、彼女は入社式や研修の準備でバタバタと奔走していて邪険にあしらわれてしまったのだ。 とりあえず北町に分かれて宿泊してくれたことに対する礼状だけは送ったのだが、今後の利用がなくなってしまったらどうしようかと正直ずっと気が気ではなかった。
「良かったあ……」
 思わず零れた言葉に、安堵の溜息が混ざる。少しだけ気持ちが軽くなった。
「だからもう、引きずるな」
 由美がもう一度言った。その言葉に、果恵はありがとうございますと呟いた。

 やがて食事を終え、ふたりは他愛のない世間話を繰り広げていた。繁忙期は一時間の休憩をとることすらままならなかったのだが、人が増えて最近は落ち着いて食事をとることができるのがありがたい。 果恵がしみじみと思っていると、突然、内線電話が鳴り出した。休憩中と分かっていてかけてくるのだから、間違いなく急用だ。 感謝したそばからこれだと、思わず愚痴をこぼしそうになりながら果恵は立ち上がった。受話器の向こうからは、フロントに立つ新入社員の困惑した声が聞こえてきた。
「由美さん。三時に来館予定のお客様、用事が早く済んだからってもう来られたんですって」
「ええー、もともと二時の予定を先方の都合で三時に変更したのに」
 新入社員から聞いた用件をそのまま伝えると、思い切りしかめ面で悪態をつきながら由美はのろのろと立ち上がった。 果恵は苦笑いを浮かべながら、今から由美が向かうからそのままロビーで待ってもらうようにと新入社員に指示を出す。
「由美さん、顔恐いです」
「あら、どこがよ?」
 果恵が眉間の皺を指摘すると、由美は嘘くさい笑みを浮かべた。むしろその完璧な笑顔の方が恐い。
「さてと、行くか」
 そうひとり言ちると、由美は背筋を伸ばして休憩室をあとにした。コツコツと規則正しく響くヒールの音が、やがて廊下の向こうに消えていった。


 先ほどまで由美と会話を弾ませていた休憩室は静かだ。休憩時間の残りは僅かなのでテレビをつける気にもならず、果恵はテーブルの上に置いていたバッグの中から携帯電話を取り出した。
 携帯には、新着メールが一件届いていた。送り主は郁子で、明後日にランチに行く約束をしているのでその件だろうと思いながらメールを開く。 果たして内容はその通りだったのだが、用件は果恵の予想とは外れていた。大方この店に行きたいと希望の店をピックアップしているのだと思いきや、時間と場所の変更のリクエストだった。 珍しく地元での待ち合わせを希望していて、時間も夜が良いとのことだ。
 地元の病院で働く郁子は休みの日くらい街に出たいと常に言っており、その為に県内では最も栄えているこの街で会うことが圧倒的に多い。 昼間に用事が入ったのだろうか。その日は休みで翌日も遅番の果恵は一向に構わないので、その旨を手短に入力すると送信ボタンを押した。
 それならば久しぶりに実家に顔を出そうと思い至り、続いて母親にもメールを送る。正月以来帰っていないので、郁子に会う前に実家に寄ろう。 送信が完了したのを確認して携帯電話をバッグに入れると、果恵はゆっくりと立ち上がった。窓の外を見やると、桜の若木が鮮やかな緑色の葉をつけていた。

 


2013/06/06 


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