「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
白い霜のついたジョッキを遠慮がちに合わせると、琥珀色の液体をごくりと飲む。今日は気温が高く喉が渇いていたので、冷えたビールが旨かった。
仕事を終えて駅に向かおうとしていた果恵に声をかけたのは、菜乃花が先程チェックインをしたと言う聡だった。
近所に買い出しにでも行く途中なのだろうか、ノータイで第一ボタンを外した少しラフな姿はいつもと印象が違って見える。
「こんばんは。今日はもう上がり?」
「はい。筒井くんは?」
「コンビニに買い出しに行くところ」
由美と菜乃花には叱られてしまいそうだが、さすがにメールアドレスも知らないのに食事には誘えないなと、本音を言うと果恵は半ば諦めていた。
菜乃花が言うような職権乱用まがいの強硬手段に出るわけにもいかず、滞在中に偶然会えれば誘ってみようかなと完全に運任せだったのだ。
けれども、果恵の予想に反して呆気なく、しかもおあつらえ向きのシチュエーションでふたりはばったりと会ってしまったのだ。
「あの、良かったらこの前のお詫びなんだけど……」
「この間言ってた、旨い店なんだけどさ……」
再会のぎこちない挨拶を交わしたあと、微妙な間があった。やがて果恵が思い切って話を切り出したのと聡が口を開いたのは、ほぼ同時だ。
このあと予定のないふたりが食事に行くことは拍子抜けするくらいにあっさりと決まり、果恵はいつも由美と行くお気に入りの創作和食の店に案内したのだった。
とりあえず乾杯を済ませると、果恵は改まって頭を下げた。
「先日は、本当にすみませんでした」
そう謝罪してからそっと窺うように顔を上げると、聡は口元を押さえて笑いを堪えていた。
「あの……?」
予想外の反応に、果恵が戸惑い気味に声をかけた。怒られたら困るけど、笑われても困惑してしまう。
「ごめん。絶対に佐々木さんは第一声で謝るだろうなと思っていたから、予想通りでつい可笑しくなって」
そう言ってくつくつと肩を揺らす聡に、果恵はどう反応して良いか分からない。何も言えずに黙っていると、聡が更に言葉を繋いだ。
「確かにホテル側のミスだったかも知れないけれど、きちんと誠意を持って対応してくれた。それに満足したから俺は今回の出張でもホテル・ボヤージュを予約したんだ。だからもう、謝らないでよ」
「ありがとうございます」
申し訳ないという態度をとり続けることも、あまり良くないのかも知れない。謝罪の言葉の代わりにお礼を言うと、聡が小さく頷いて微笑んだ。ほっとした気持ちになって、果恵も頬を緩めた。
やがて、注文した料理が次々とテーブルに運ばれて来た。
由美と来る時はいつも季節限定のメニューを中心に注文するのだが、今日も菜の花の天ぷらや筍のバター焼き、ホタルイカのパスタなど、春らしいメニューに食欲をそそられて旬の食材を使った料理ばかりをオーダーしている。
「旨い!」
いただきますと手を合わせて、早速天ぷらに箸をつけた聡が感想を洩らす。
「良かった」
気に入ってもらえる自信はあったが、実際に美味しいと言ってもらえると安堵する。旨そうに食べている聡を眺めていた果恵も小鉢に箸を伸ばした。
大通りから少し路地に入った所に店を構えているにも関わらず、いつも店内は賑わっている。
「何だか、不思議な感じ」
「何が?」
ピークの時間を迎えて満席になった店内で、パスタを小皿に取り分けながら果恵がしみじみと言った。シンプルすぎる感想に、聡がその意味を問いかける。
「中学時代のクラスメイトと一緒にお酒を飲んでいることが」
果恵がそう答えると、手元のグラスに視線を落とした聡が納得したように笑った。
「確かに」
「あの頃に思い浮かべる未来は高校生になった自分ばかりで、お酒を飲める年齢になることは遠すぎて想像もしていなかったから」
ましてや、その相手が聡なのだ。例え当時の自分に教えてあげたとしても、絶対に信じないだろう。
「出張が決まった時は久々にこちらに帰って来ることに懐かしさを感じたけれど、誰かに再会できるとは期待していなかった。だから、予約したホテルで佐々木さんが働いていたことには本当にびっくりしたよ」
「チェックインしたからわたしはすぐに気づいたけど、筒井くんはよくわたしのことが分かったね」
制服の胸元に名札をつけてはいるが、意外と文字が小さくてお客様には見えづらい。
カウンター越しで果恵の名札を確認できたとも思えず、絶対に気づいていないと思っていたからチェックアウトの際に声をかけられた時は本当に驚いたものだ。
「佐々木さんかなとは思っていたんだけど確証がなくて。でも、常連のお客さんらしき人がチェックインに来た時に、佐々木さんを下の名前で呼んでいるのを聞いて確信したんだ」
付き合いが長い客の中には、まるで娘のように下の名前で呼んでくれる人たちがいる。彼らとのやり取りを聡に見られていたという記憶はないが、偶然聞いていた聡が果恵の名前で同級生だと確信したのだろう。
納得すると同時に、名前を覚えてくれていたのかと果恵は密かに嬉しくなった。
意外にも、そのあとも聡との会話は途切れることはなかった。
中学時代は互いに異性と打ち解けて話すタイプではなく、何となくそのイメージが強かったのだが、さすがにふたりともいい大人なのでそれなりに会話を弾ませることはできる。
そもそも、再会してから何度か顔を合わせてはいるものの挨拶程度しかしていないので、互いに知らないことが多すぎて質問し合うだけでも充分に会話が成り立つのだ。
「筒井くんは、営業でこちらに?」
「いや。俺は総務の人間なんだよ」
年が明けてから月に一度くらいの割合で利用してくれているのでてっきり営業かと思っていた果恵は、聡が否定したことに小さく驚いた。
「大学は法学部だったんだけど、色んな資格をとることにはまってさ。そのお陰で超氷河期だと言われていたけれど何とか今の会社に内定もらって、総務部に配属されたんだ」
「筒井くんこそ、得意分野を活かした仕事に就いていてすごいね」
以前、果恵が海外からのゲストと英語で会話している様子を見た聡の感想を、そっくりそのまま返した。恐らく労務や法務関係の資格を取得しているのだろう。
定期的に出張に来ているので営業かと思いつつ、大人しい聡のイメージと営業職があまり結びついていなかったのだが、たくさん資格をとって総務で活かしていると聞けば何となく納得だ。
「うちを利用されるビジネスのお客様は殆ど営業の方だから、てっきり筒井くんもそうだと思ってました」
「基本俺たちに出張はないよ。今回はかなりイレギュラーなパターン」
そう言いながらビールを飲み干すと、聡は日本酒を注文した。まだジョッキに半分以上残っている果恵に比べ明らかにピッチが早く、かなりアルコールに強そうな感じだ。
それも意外だなと思いながら、果恵は聡の話に耳を傾けた。
聡が勤めるのは、医療機器を扱う会社らしい。
今回この街に営業所を新たに立ち上げることになったのだが、たまたま聡がこちらの出身だということが上司の耳に入り、準備室の責任者として白羽の矢が立ったそうだ。
「出身だと言っても実際に住んでいた町は少し離れているし、役に立たないと思うと言ったんだけどね」
確かに果恵たちが育った町までは此処から電車で一時間はかかるし、何よりも聡は中学三年までしかこちらに住んでいない。けれども、聡はそのことには触れはしなかった。
「要は人手不足で、抱えている仕事が一番少なかったのが俺だったんだよ」
きっと人選の理由はそうではないだろうと思いながら、果恵は苦笑いを浮かべる聡を見つめた。
聡の話によると、事務所を探して賃貸契約を結び、リフォームを依頼することが主な仕事らしい。それ以外にもデスクから文具まで必要な物を発注したり、現地採用となる事務員の面接なども行ったそうだ。
前に荷が重いというようなことをこぼしていたが、確かに責任のある仕事だ。
「大きな仕事を任されているんだね」
「もちろん俺に決裁権はなく、最終的には上司の指示を仰ぐからそこまで大変ではないけどね。ただ、事務所の引渡しで少しトラブルがあってリフォームがずれ込んだのには参ったけど」
もしかして、何度もこちらに来ているのはそのせいだったのだろうか。果恵がそう尋ねると、日本酒を飲みながら聡が頷いた。
「本当は事務所を契約して現地スタッフを採用したら、あとは所長に内定している営業部の人に引き継ぐ筈だったんだけどね」
北町に宿泊してもらったあの日も、もともと上司と来る予定だったと言っていた。宿泊予約が当日入ったりしていたのも、急なトラブルで動いていたからなのだろう。
「いつ事務所はオープンするの?」
「一応新年度からの予定だったから四月にオープンはしているんだけど、リフォームが終わっていないからまだ仮の状態。五月には正式に始動できる予定だよ」
そう、と果恵は呟いた。既に泡が消えてしまったビールをごくりと飲み干す。やがて果恵は、聡が今回の出張の内容を説明し始めた時から気になっていた質問を口にした。
「じゃあ、今後はこちらに出張に来ることはないの?」
「そうだね」
果恵の問いに対し、聡はあっさりと肯定した。そして、空になった果恵のジョッキを指して追加を何にするかと尋ねてくる。
豊富に揃った梅酒のメニューの中から果恵がいつも頼む品を選ぶと、聡も一緒に日本酒のお代わりを注文した。
「あと一回だけ、五月に来るよ」
オーダーを受けた店員が空いたグラスを下げて行くのを黙って眺めていた聡が、やがてぽつりと呟いた。そう、と果恵は小さく相槌をうつ。
「じゃあ」
思いのほかがっかりしている自分の気持ちを隠すように、果恵は努めて明るいトーンで言葉を繋いだ。
「来月もホテル・ボヤージュのご利用をお願い致します」
「もちろん」
少しおどけて果恵が言うと、聡が笑いながら頷いた。