春休みが終わると、ようやく少し落ち着いてきた。残業はまだ多いが、ピークの時に比べると随分楽だ。
そして新年度を迎え、ホテル・ボヤージュにも新入社員がやって来た。例年入社三年目くらいのスタッフがOJTに就くことになっており、今年は菜乃花が担当することになった。
新入社員と同じくらい菜乃花も緊張していて、傍で見ていると何とも微笑ましい。
それから、新卒と同時に中途採用の社員もひとり加わった。隣の市にあるビジネスホテルで働いていたというその人は、ホテルの閉鎖に伴いホテル・ボヤージュへ転職して来たらしい。
会社によって細かいやり方は当然違うが、経験者なので基本を理解しているのは教える側として非常に助かる。残業続きのスタッフたちは皆、即戦力の加入を心の底から歓迎していた。
「お疲れ」
休憩室で早番の果恵が昼食をとっていると、マネージャーの小野が入って来た。ホテル・ボヤージュには従業員食堂はないが、希望すれば厨房で賄いを準備してくれる。
料金は毎月給料から天引きされるのだが、安いのでほぼ全員が賄いを頼んでいた。
「俺、昨日の晩もカレーだったんだよなあ……」
今日の賄いはカツカレーだ。どうやら昨晩のメニューとかぶってしまったらしい小野が、果恵の皿を覗き込みながらぶつぶつと言っている。
「そういや、新卒ちゃんはどうだ?」
用意されているごはんとカレーをよそいながら、不意に小野が尋ねてきた。文句を言っているわりに、皿の中身は大盛りだ。
「頑張ってますよ。岸本は一から教えないといけないと気合いを入れていたみたいなんですけど、ホテル専門学校卒だからか、かなり飲み込みが早いようです」
「専門学校で勉強したことが実践で役立つとも限らないが、あの子はかなり優秀な成績で学校を卒業したみたいだからなあ」
「そうなんですね。昨日から電話応対もさせているんですけど、物怖じせずにやっているので頼もしいです」
毎年新入社員を受け入れていると、正直当たり外れはある。どんどんと仕事を吸収していく若者の姿に、今年は大当たりだなと先輩社員たちの評判は上々だった。
「岸本も頑張っているみたいだし、OJTに就けたことであいつもステップアップしてくれたら良いんだが」
「変わりましたよ、だいぶ。もともとフロント業務には問題がなかったのですが、団体の方でもかなり助けてもらっています」
最近は、以前のようなケアレスミスが減った。ゼロではないが、それは果恵だって同じだから互いにチェックし合ってミスを防ぐしかない。
何よりも、これまで果恵の指示を待つことが多かったのだが、自分から先回りして処理をするようになったことが大きな変化だ。
「佐々木も変わったな」
「わたしですか?」
不意に話の矛先を向けられて、果恵は少し驚いたように目を瞬いた。
「ああ。自分が頑張らないとっていつも肩肘張っていたけれど、だいぶ他人に任せることを覚えたようだ」
鋭い指摘に、果恵は苦笑いを浮かべる。
「自分のキャパを知りましたから。いつまでも若い子たちを頼りないと見くびっていましたけど、それはわたしがちゃんと後輩たちを見ていなかっただけで、
あの子たちはみんなしっかりしていることに今更ながら気づいたんです」
「あいつらがしっかりしてきたのは、身近に良い手本があったからさ」
先程の不満顔が嘘のように綺麗にカレーを平らげると、グラスに水を注ぎながら小野が言った。
「おまえや他の社員たちがきちんと仕事をしているから、下の奴らはそれを当たり前だと思うんだ。仕事ができる奴って言うのはな、自分と同じくらい仕事ができる後輩をきちんと育てられる奴なのだと俺は思う」
今まで果恵は、完璧に仕事をこなすことだけを考えていた。けれども、それだけでは駄目なのだ。たとえば果恵が急病や不幸事で出勤できなくなった時に、代わりを務められる人間がいないということは大問題である。
小野が言っているのは、つまりはそういうことなのだろう。自分でやれば良いと、ひとりで仕事を抱え込んでしまっては意味がない。
後輩をしっかりと育てて職場のレベルを引き上げてゆく、それが理想的な形なのだと果恵は最近になってようやく理解したのだった。
南に面した休憩室の窓の向こうには、桜の木が見えている。若い木ながらも可憐な花をつけていて、風が吹くたびにはらりはらりと薄紅色の花弁が舞い上がっていた。
「ところでおまえは、将来どうするつもりだ?」
のどかだなあ。そう思いながら窓の外に広がる春の景色をぼんやりと眺めていた果恵に対し、脈絡もなく唐突に小野が問いかけてきた。
「しょ、将来ですか!?」
予想外の質問に驚きすぎて、思わず声が裏返ってしまう。何故そのようなことを尋ねてくるのだろうか。果恵は訝しそうに上司の顔を見つめた。
「佐々木は、結婚しないのか?」
「はい!?」
けれども小野は、果恵の動揺をよそに質問を重ねてくる。若い子も入社したことだし、大きなミスをする三十路はそろそろ辞めてもらえないだろうか。
世に言うリストラ勧告なのだろうかと、向かい合って座っている筈なのに上司からぽんと肩を叩かれたような気になって思わず青ざめた。
「おい、誤解するなよ。これはセクハラでもパワハラでもないんだからな!」
ぐるぐる悪い方向へ頭を巡らせていた果恵に対し、小野が焦ったように釘を刺す。それに少し安心したけれど、今までされたことのない質問をされれば警戒して当然だろう。
「びっくりしました。この年で転職活動かと、今の十秒間で色んな計算をしてしまいました」
「一体何の計算だよ」
「家賃ですよ。今の貯金で何ヶ月食いつなげるかです。その間に再就職先が決まるかなと、本気で心配してしまいました」
「佐々木はしっかりしてるように見えて、たまにとてつもなく阿呆だな」
呆れたように小野が溜息を吐く。褒められているのかけなされているのか分からない言い草に、果恵は不満げに上司を見た。
「真面目な話、結婚の予定はないのか?」
「結婚はひとりではできませんから」
思わずひねくれた答を返してしまう。果恵に彼氏がいないのは職場で公然となっており、それでいじられることも日常茶飯事だ。だから、今更確認されることが驚きだった。
「じゃあ、このホテルでこの先どうなりたいというのはあるか?」
これもまた予想外の質問で、果恵は答に窮する。
「今は団体をやっているけど、ルームコントロールをやってゆくゆくはマネージャーや支配人を目指したいとか経験のない部署に異動してみたいとか、そういうのはないのか?」
「わたしは……」
恥ずかしいことなのかも知れないが、果恵にはさほど出世欲はなかった。どちらかと言えば、小野のようなリーダーシップのある上司のもとで働く方が性に合うと思っている。
それは、自分は人の上に立つ器ではないという一見冷静な判断のようでもあるが、責任ある仕事にはあまり就きたくないという消極的な気持ちの表れでもあった。
「団体の仕事が好きなので、現状に満足しています。もちろん繁忙期はきついですけど、終わったあとはやりがいもありますし」
「そうか」
小野のあっさりとした反応に、答を誤ってしまったかと果恵は思わず考え込む。けれども、それは果恵の偽らざる本音だった。
「ホテルのオープニングスタッフになることに、興味はないか?」
尚も重ねられた質問に、果恵は目を瞬いた。
「それは、ありますけど……」
ホテルで働く人間なら、チャンスがあるのなら誰だって開業に関わってみたいと思うだろう。前に由美とも話題にしたことがあるが、果恵にだって憧れはある。
けれどもこの場合、話の流れが向かう先は決まっているのではないだろうか。
「東京で働いてみたいと思うか?」
「それは、今回の社内公募に応募したいかということですか?」
上司の問いかけに対し、果恵は質問で返した。
「そうだ」
彼が頷くのを見て、果恵はしばし黙り込んだ。
「地元を離れて知らない土地で働くことは、わたしにとってかなりの勇気が必要です」
果恵の答に、小野はそうだよなとひとりごとのように呟いた。
これは単なる意思確認なのだろうか。それとも異動の可能性をほのめかされているのだろうか。戸惑い気味の果恵に対し、小野がおもむろに口を開いた。
「ここだけの話なんだが、俺は六月に異動になる」
「東京に行かれるんですか?」
「ああ。今はこっちに置いている開業準備室を、現地に立ち上げる」
異動の件に関しては由美から聞いていたので、あまり驚きはなかった。
「単身赴任されるんですか?」
「いや。嫁さんはもともと向こうの人だから、異動が決まって喜んでいる」
それなら一安心だ。今回の人事は、小野が宿泊マネージャーから支配人に昇格する為の大きなステップとなるだろう。
そうは言っても、単身赴任になれば栄転だとしても手放しでは喜べない。けれども、家族も納得の転勤ならば部下としては素直に喜ぶべきだろう。
「あと二ヶ月もないんですね」
「ああ、結構タイトなスケジュールだ。でも心配するな。飯塚が昇格して俺のあとを引き継いでくれる」
現在アシスタントマネージャーの飯塚がそのまま昇格するのなら、それもまためでたい話だ。果恵たちフロントスタッフにとっても、飯塚がマネージャーになってくれるのならば安心だ。
けれども、入社した時から世話になった人がいなくなることは何とも寂しい。
「佐々木、おまえ東京で頑張ってみないか?」
ずっと言い淀んでいた小野が、やがて意を決したようにそう尋ねてきた。
「わたし、ですか?」
「ああ」
由美には以前、チャレンジしてみればとけしかけられたことはあったが、正直考えたことはない。現に、公示されているにも関わらず社内公募の選考方法やスケジュールも知らないありさまだ。
「それは、異動命令ですか?」
「いや。もともとうちは地元だけで展開するホテルで、異動はあっても通勤圏内だというつもりで俺たちは入社している。
だから極力無理な人事異動はせずに、開業に関わるスタッフは希望者から選びたいというのが上層部の意向だ」
それならば何故、果恵に尋ねてくるのだろう。まさか、社内公募の応募者がいないのだろうか。
「今回の件に関して俺にはある程度の人事権が与えられているのだが、既に何名かは社内公募で内定している。あとは、俺が個人的に連れて行きたいと思う奴らに声をかけているんだ」
思いもよらない展開に、果恵は呆けたように小野の顔を見つめた。
「何で、わたしなんですか?」
「信頼できる部下だからだよ」
向かいに座るその人は、こともなげにそう言った。尊敬している上司からの予想もしない一言は、凄まじい破壊力だ。今まで辛かったことはたくさんあるが、全てが一気に報われたような気がした。
「でも、わたし……」
けれども、だからと言って簡単に頷ける話ではない。知らない土地で働くのは怖いし、今よりも責任ある仕事を任されることも正直怖い。
「もちろん即答できないのは分かっている。社内公募の期限は今月いっぱいだから、それまで考えてくれ」
そう言うと、小野はがたんと音をたてて立ち上がった。
「俺は、できると思う奴にしか声をかけていないから」
何という殺し文句だろうか。果恵は小野が休憩室から出て行った瞬間、大きく息を吐いた。心の中には、嬉しさと戸惑いが渦巻いている。
つい先日大きなミスを犯した果恵のことを、小野は予想以上に評価してくれていた。今までの頑張りを認められたようで、それは本当に嬉しい。
上司の想いに応えたいという気持ちもほんの少しだけ芽生えてはいるが、それでも未知の世界に踏み出す覚悟はない。
(……どうしよう)
ううっと唸ると、果恵は頭を抱えてテーブルに突っ伏した。