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ぎ出すカエル



 09. 余裕のないカエル


「佐々木さん、エージェントが明後日からの団体の部屋割を教えて欲しいとのことです」
「悪い佐々木、一名キャンセルが出たから請求書を作り直してファックスしてくれ」
「こちらの団体様の中にアレルギーの方がいらっしゃるので、その方だけ夕食を別メニューに変えて欲しいそうです」

 いよいよ春休みに入ると、毎日のように団体の変更や細かいリクエストの電話がかかってくるようになった。 繁忙期に入り職場全体が業務に追われてピリピリとした雰囲気が漂い、果恵も些細なことに苛立ちを感じるようになってきた。
「なっちゃん、ちょっと」
 明日到着の団体の最終チェックを行っていた果恵が、向かいの席に座っている菜乃花を呼ぶ。少し尖った声音に、菜乃花が慌てて果恵のデスクまでやって来た。
「この団体、夕食のコース変わったよね。料金そのままになってるけど」
「あっ! すみません、すぐ訂正します」
 予算の関係で値交渉をしてきた団体に対し、食事のグレードを落とすならということで割引を受け入れた。 その一連の処理を任せていたにも関わらず、厨房への報告だけして料金入力の変更がなされていなかったのだ。
「なっちゃん、ひとつひとつ指示を出さなくてもそれくらいはやってね」
「すみません……」
 言ってしまったその瞬間に、きつく言い過ぎたと後悔する。
「バス駐車場の手配は助かった。ありがとう」
  フォローするかのように、別件での処理に対して礼を言う。小さくなっていた菜乃花は、そこで少しだけほっとした表情を見せた。

 ちらりと時計を見ると、定時は既に過ぎている。果恵は席を立つと休憩室に向かった。
 好きで入った業界だから、頑張って乗り切ろう。そう心に誓ったのはつい先日だ。けれども山積みの業務に忙殺される中で、そんな理想論は吹けばすぐに飛ばされるくらい軽いものになり果てていた。
 月間の残業時間の累計は過去最高を記録し、今も更新を続けている。人が少ない上に勤続年数の浅いスタッフの比率が高いので、どうしても果恵たち中堅スタッフへの負担が大きくなっていた。
 疲れた体は糖分を欲していて、果恵は自動販売機にコインを入れるとカフェオレのボタンを押した。一口飲むと、深い溜息が洩れた。 仕事は嫌いじゃないけれど、疲れた辞めたいというネガティブな感情が頭をもたげてくる。本気で辞めたいかと問われればそうではないのだけれど、要は楽な環境へと逃げたいのだ。 肉体的な疲労はもちろんだけれど、ただ指示を仰ぐだけだった若い頃に比べて仕事の責任が増しているので、何よりも精神的にきつい。
 残りのカフェオレを一気に飲み干すと、果恵は空き缶をゴミ箱に投げ入れた。誰もいない休憩室に、空き缶の音が大きく響く。さてと、気合いを入れる為にそう大きく呟くと、果恵は休憩室をあとにした。

「佐々木さん、先程シマザキフーズ様からお電話ありました。ネームリストのファックスが届いてます」
 事務所に戻ると、夜勤の内藤がファックス用紙を手渡してきた。シマザキフーズはホテル・ボヤージュと同じ並びに本社ビルを構えるお得意様で、定期的に研修などで会議室と宿泊の予約を入れてくれている。
「ありがとう」
「ファックスにも書いてますが、変更があるらしいんですけど」
「了解。こっちで確認して変更しておく」
 果恵がそう答えてネームリストを受け取ると、内藤はお願いしますと言ってフロントに戻って行った。
 今回の予約は四月一日から三泊で入っている新入社員研修だ。 例年ホテル・ボヤージュの貸会議室で入社式をとり行い、そのまま三日間研修が実施される。 シマザキフーズは全国に支店があり、各配属先でOJTに就く先輩社員も初日のみ宿泊する予定だ。受け取ったネームリストを見ると、仮予約から若干人数が増えているが内容は例年通りで変わりはなかった。
 まだ少し日があるので、名前の入力は明日以降でも問題ない。確定した人数だけ入力してネームリストを団体予約用のラックに入れると、電話が鳴った。

「果恵さん、訂正終わりました。新規予約の入力やりましょうか?」
 果恵がエージェントとの電話を終えたのを見計らって、先程の手配書を持った菜乃花が声をかけてきた。未処理のファックスを入れている書類箱を指しながら、果恵の指示を仰いでくる。
「ああ、お願い。……いや、待って。明日の団体の朝食券の準備がまだできていないから、そちらを先にやってもらって良いかな?」
「了解です」
 部屋割を終えたばかりの団体の手配書を菜乃花に渡すと、果恵は未処理の新規予約を手に取った。
 今の短いやりとりの中で果恵が考えたのは、自分で入力した方が確認の手間が省けるということだった。 菜乃花が入力したものは、今はまだ全て果恵が確認している。最終確認をしてもらえるという甘えがあるせいか、菜乃花の処理にはケアレスミスが多いのだ。
 料金入力の際に税込と税別を間違えていたり、ツインルームに入る人数を二名なのに一名で入力していたり。 どれも致命的なミスではないのだが、間違いを見つけるたびにやはりまだ自分がチェックしないと恐いなという思いを抱いてしまう。
 どうせあとで確認しなければならないのなら、最初から自分で処理した方が早い。 本当は、仕事をどんどん任せてきちんと育ててゆかなければならないのは分かっているが、それは人員が補充されてもう少し余裕ができてからにしよう。 果恵は菜乃花が確実にできる仕事を選んで振り分け、入力などは全て自分自身で行うようにした。

 春休みの前半は、スポーツ団体の予約で埋められている。ホテル・ボヤージュからバスで三十分程の場所には県営のスポーツ施設があり、グラウンドや体育館やプールを併設している。 例年、長期休暇に入ると連日様々な試合が行われ、それらに参加するスポーツ団体の宿泊予約が圧倒的に多かった。それらの団体は夕食付きの場合が多く、打ち合わせのたびに果恵は厨房と事務所を往復していた。
 この頃になると連日ほぼ満室で、日々のルームコントロールも難しくなってくる。インターネットで販売している部屋は停止し、エージェントに提供している分も返室してもらわなければならない。 それらの処理を怠るとオーバーブックになってしまい、予約頂いているお客様にお願いして他館に宿泊してもらわなければならなくなる。 それはホテルにとっては絶対に避けたい事態であり、そうならないように果恵は団体の催行状況をマネージャーに逐一報告しながらこまめに返室依頼をかけるようにしていた。
 スポーツ団体の宿泊のピークが過ぎると、今度は新入社員研修の波がやってくる。シマザキフーズをはじめとする近隣の企業が、会議室で終日研修を行うのだ。 一日だけの企業もあれば、中には一ヶ月以上続く企業もある。果恵がホテル・ボヤージュに入社した時は、レストランやベッドメイクなど各部署で一通りの研修を受けたものの、実践あるのみという方針だった。 それは今も変わっていないが、まずは専門知識を詰め込んでゆかなければならない職種の人たちは大変だなと毎年思う。 けれども、チェックインの時は学生の顔だった新入社員たちが滞在中、少しずつ社会人の顔つきになってゆくのを観察するのは果恵にとっても少なからず刺激になるのだった。

「果恵、ちょっと来て」
 今日も満室で、平日にしては早い時間帯からチェックインが続いている。その波が止まって一息ついたタイミングで、事務所から顔を覗かせた由美が声をかけた。 忙しい中でも常に冗談を言って場を和ませていた由美が見せる険しい表情に、何事かと果恵は緊張した。
「何か、あったんですか?」
「シマザキフーズの予約なんだけど」
 会議室担当の由美は、シマザキフーズの新入社員研修の研修会場を担当している。何かトラブルでもあったのだろうか。由美が差し出した用紙は、先日先方から送られてきたネームリストのファックスだった。
「いつもは四月一日からの利用だけど、今年は前泊が必要だから宿泊は三月三十一日に変更になったって聞いてない?」
 由美の言葉に、果恵は一瞬で血の気が引くのが分かった。どくんどくんと、心臓が鳴るのが聞こえる。人数の変更はしたけれど、日程を変えた記憶は果恵にはない。そして三月三十一日は、既に満室の筈だ。
 奪うようにしてファックスを見ると、右端にチェックイン日と記載があったが、四月一日と書かれたのが消されて上に三月三十一日と小さく訂正されていた。

「人事の中谷部長に会場レイアウトの最終確認の電話を入れて、日程変更を知ったの。 OJTに就く社員を前日から集めてミーティングすることに急遽決まったらしく、そのせいで予定より一日早くチェックインすることになったらしいの。 新入社員の方も、今年は遠方の子が多いからついでに前泊させようってなったらしくて、電話で問い合わせをしたら空室はあるって言われたから変更した筈だって」
 あの日、ファックスを手渡してきたのは内藤だ。果恵は早まる鼓動を落ち着けるように深く息を吸うと、一連の流れを思い浮かべた。変更があるらしいんですけど、確かに内藤はそう言った。 けれども果恵は、それが人数の変更だと思いこんで日付の部分は見落としていたのだ。
「すみません。すぐに対応します!」
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。頭の中を、その単語だけがぐるぐると回り続ける。
 慌てて三月三十一日の残室を確認したが、やはり果恵の記憶通りあと五室しか残っていなかった。シマザキフーズの予約は四十三室だ。 多少のキャンセルは出ると思うが、あと五日で三十八室も空くわけがない。果恵は自分がやらかしてしまったミスの大きさに、目の前が真っ暗になるのを感じていた。

 


2013/04/27 


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