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ぎ出すカエル



 06. 臆病なカエル


 ‘一月は行き、二月は逃げる’とはよく言ったもので、つい先日年が明けたばかりだと思っていたのにもう二月も半ばだ。 今は閑散期だが少しずつ春休みの予約が入り始めているので、この調子だとあっという間に三月も去ってゆくだろう。
 南に面した休憩室の窓の外には柔らかな日差しが降り注ぎ、今日の予想最高気温も相変わらず低い筈なのに、思わず暖かそうだと錯覚してしまいそうな陽気だった。

「果恵さんが休憩に行かれている間にエージェントから電話があって、この団体が行程変更の為に夕食不要になったそうです」
 早番の果恵が休憩から戻って来ると、手配書を手にした菜乃花がそう報告してきた。
「了解。処理はしてくれた?」
「はい」
 果恵が確認すると、少し自信なさげな表情で菜乃花が頷いた。
「予約画面の入力と、手配書と先行予約表の変更はオッケー?」
「オッケーです」
「レストランへの報告は?」
「あっ……」
 しまったという表情を見せた菜乃花に、果恵は思わず洩れそうになった溜息を飲み込んだ。
「なっちゃん、もう何度も言ってるよ。ちゃんと料飲通知も変更して」
「すみません」

 ホテル・ボヤージュではここのところ退職者が続いている。昨年の夏前に転職希望者が二名出て、秋にも結婚退職者が出た。 秋に辞めたのは、果恵と共に団体業務に就いていた入社五年目の後輩だった。おめでたい話なのだけれど、仕事ができただけに抜けられた穴は大きい。
 入社二年目の菜乃花が後任として果恵のサポートに就いたが、まだまだ多くを任せるのは難しい状態だ。 素直な性格で接客態度は完璧だけれども、うっかりミスが多いので今はまだ果恵が全てをチェックしないと信用するのは少し怖い。 二月は余裕があるけれど三月に入ると団体予約の数が一気に増えるので、どうやって仕事を回そうかというのがもっかの果恵の悩みだった。

「菜乃花、厨房に行くのなら今のうちだよ。今日は夜に宴会が入ってるから、もう少ししたら忙しくなってシェフの機嫌が悪くなる」
 背後からかけられた声に果恵と菜乃花が振り返ると、そこには会議室担当の由美が立っていた。
「了解です。由美さん、ありがとうございます」
「じゃあ、厨房に変更出したらそのまま休憩行って来て良いよ」
 果恵がそう声をかけると、菜乃花は笑顔でぺこりと頭を下げて厨房へ向かって行った。
「良い子なんだけどねえ……」
 まるで果恵の心の内を代弁したかのように、隣で由美が呟いた。

「そうそう、今日うちのダンナ出張なんだ」
 先程の発言に対して返す言葉を探していた果恵をよそに、由美はまるで自分の言ったことを忘れてしまったかのようにうきうきと話かけてきた。
「そうなんですか? じゃあ、久しぶりに行きましょうよ」
「果恵は大丈夫? わたしは宴会がスタートしたら上がれるから、定時オッケーだと思うけど」
「わたしは早番ですから、残業になったとしても由美さんと同じくらいにはタイムカード切れます」
 そう果恵が答えると、由美がにやりと笑う。
「じゃあ、マッハで仕事終わらせる。そうそう二時にアポイント入ってるから、来館されたら呼んでね」
 たぶん一番最後に付け足した用件が、フロントへ顔を出した本来の理由なのだろう。了解と答えると、果恵は早く仕事を終わらせる為に菜乃花が変更した手配書に目を通した。




「ちょっと果恵、これ食べてみなよ。すっごい美味しい!」
 駅前から少し路地に入った所に構えている創作和食の店は、果恵と由美のお気に入りだ。旬の食材を使った季節メニューが豊富で、何度行っても飽きることがない。 既婚者の由美とはそう頻繁に飲みに行くことはないが、旦那さんが出張の日はこうやって果恵を誘ってくれるのだ。
「そうそう、三月から来る予定だった中途採用の人、辞退したんだって」
「え、嘘!?」
 由美は情報通だ。そんな彼女からもたらされた嬉しくない情報に、果恵は箸を置いてがくりとうなだれた。
「今日、マネージャーに断りの電話があったみたい」
「そんなあ。今月は何とかなったけど、来月は忙しいのにどうやってシフト回せって言うんですか……」
 果恵が入社した頃に比べ、現在の従業員数はかなり減っている。 一昔前に比べ不景気の今は出張費を削る企業が多く、スケジュールをタイトにまとめて日帰りにしたり会議を電話やウェブで行うことでそもそも出張自体をなくしたりと、業界を取り巻く環境は厳しい。売り上げが落ちるとまず減らすのは人件費で、ここ数年はぎりぎりの人数で回していた。
「まあ、電話とかはできるだけこっちで取るからさ。他のことも、手が空いてる時なら手伝うから言いなよ」
「うわーん、お姉さま!!」

 由美は果恵よりも五歳年上で中途入社だ。何度か転職を経験し複数のビジネスホテルのフロントで働いていたが、結婚を機に新居に近いホテル・ボヤージュに入社して三年前から会議室担当として働いている。 最初は年上なので気を使っていたのだが、果恵の姉と同い年ということもあっていつの間にか慕うようになっていた。 そんな彼女を由美も可愛がってくれて、ホテル・ボヤージュでの勤務経験しかない果恵に対し、ホテル業界の様々なことを教えてくれている。
「こんな人手不足の状況で、東京進出して大丈夫なのかなあ」
 華やかに盛りつけられた海鮮サラダに箸を伸ばしながら、果恵はぽつりと呟いた。
 ホテル・ボヤージュは現在、県内と隣県に五店舗展開している。最初に開業したのが果恵が働くホテル・ボヤージュで、その後オープンしたホテルは名前のあとにそれぞれの地名が入っていた。
 地元ではそれなりの稼動を誇るホテルだが、全国的な知名度は皆無だ。 だから地域に根ざした地道な経営をしてゆくのだと思いきや、今年の秋に東京に新ホテルをオープンすると言うのだ。 主要都市への進出という野望をずっと社長は抱いていたようで、昨年唐突にその計画を発表した時には、寝耳に水の社員たちはかなり驚愕したのだった。
「それなんだけど、マネージャーが異動の候補みたいだよ」
「ええっ、マジですか!? てゆか、由美さんの情報ルートすごすぎなんですけど」
 勤続年数は果恵の方が圧倒的に長いのに、常に新しい情報は由美の方からもたらされる。 一体どこから仕入れているのだと半ば呆れながら向かいに座る由美を見やると、当の本人はすました顔で茶碗蒸しを味わっていた。

「大変だろうけど、でもオープニングスタッフって憧れますよね」
「まあね。少なくとも、オーバーフローのクレームは受けなくて済むよ」
「ですよねえ」
 築年数の古いホテル・ボヤージュでは、メンテナンスを行っていても老朽化によるトラブルが少なからずある。その最たるものが浴室の排水不良で、ひどい時には部屋にまで溢れて部屋替えをしなければならない。 新しい建物ならばそんなことは起こりえないだろうし、お客様に対する申し訳ない気持ちを味わなくてもよいのはかなり魅力的だ。
「たぶんもう少し日が近づいたら、一般社員の社内公募も始まるんじゃない? ある程度は現地で採用するだろうけど、何人かは経験者を入れておかないとオペレーションできないし」
 それは果恵も予想していた。未経験者だけで新しいホテルをオープンできる筈はなく、おそらく果恵たち既存の社員から希望を募ることになるだろう。 現在中途採用を積極的に行っているのは、東京へ数人の社員を送り出しても今のホテルが運営できるように体制を整えているからで間違いないと思われる。
「果恵もチャレンジしてみる?」
「えー、わたしが東京にいると遊びに行けるからですか?」
 いつもの冗談だと思って軽く返すと、由美は予想外に真剣な表情でこちらを見ていた。
「冗談、ですよね……?」
 果恵の問いを否定することなく、由美は焼酎のロックをぐびりと飲んだ。

「果恵は何年目?」
「春で丸十年です」
「団体担当になって何年?」
「七年です」
 果恵が入社した時にいた女性の先輩はひとりを除き全て退職し、残ったひとりも今は別のホテルに異動している。 最初はフロントしかできなかったが、先輩たちの結婚退職ラッシュに伴い見よう見まねで団体業務を行うようになって今に至る。
「そっか。じゃあ、そろそろ新しいことチャレンジしてみたくない? 例えばレベニューマネージメントとか」
「そんな、無理ですよ!」
 思いもよらない由美の発言に、果恵は梅酒が入ったグラスを取り落としそうになった。由美は酒豪の筈なのだが、今日は酔っているのかとそっと顔色を伺う。
「オープニングなんて、なかなかチャンス無いよ」
「それはそうですけど……」
 確かにそれは魅力的だが、東京に引っ越すなんて考えられない。普通のフロントスタッフは現地で雇うだろうから、こちらから異動するのはある程度の役職に就く者だろう。 それはますますありえない。そもそも、応募しても即座に不合格になるだろう。
 来られるお客様は違ってもやることは同じで、だから同じことを繰り返す毎日に変化を求めたくなる時も正直ある。けれども、慣れた環境がもたらす安心感は大きい。 例え年齢を経て臆病になったと笑われても、新しい環境に飛び込む勇気を果恵はもはや持ち合わせてはいなかった。結局は慣れた仕事をミス無く行うことが、自分にとっては最良なのだと彼女は信じていたのだ。

 いつの間にか、出された料理は全て平らげていた。何となく沈黙が重くて、傍らのメニューを手に取る。
「まあ、そんなこと言ってても、寿退社するって突然宣言するかも知れないしね」
 デザートの写真を眺めていた果恵に、さらりと由美が言い放った。先程までと違い、今度は明らかにからかいの色を含んでいる。
「由美さん、絶対ありえないと思って言ってるでしょ?」
「すみませーん、焼酎ロックで」
 じろりと睨んだ果恵を無視し、由美は涼しい顔でお代わりを注文した。
「思ってないよ。だって運命の再会があったんでしょ?」
 派手な音をたてて、果恵はメニューを落とす。幸い皿は割れていないが、店内の注目を浴びることになった。すみませんと小さく店員に詫びる果恵に、調子に乗った由美が更に続ける。
「中学の同級生だって? すっごい偶然だよねえ」
「もう、なっちゃんのおしゃべりめ!」
 あの時フロントにいたのは菜乃花と内藤だが、由美に報告するのは菜乃花しかいない。楽しげに噂話するふたりの姿が安易に想像できて、果恵は盛大に溜息をついた。
「何で怒るのさ。真面目そうで、果恵と似合いだったって菜乃花が言ってたよ」
「すみません、黒胡麻アイス下さい」
 今度は果恵が由美の台詞を無視し、焼酎を持って来た店員にデザートを頼む。 さほどアルコールに強くない果恵が酒豪の由美に付き合うのは不可能で、飲み続ける由美に対し適当なところでデザートにシフトするのがいつもの流れだ。

「メルアド聞いた?」
「聞いてません」
「何でさー。せっかく再会したんだから、飲みにでも行けば良いのに」
 不満そうにぶつぶつ呟く由美に対し、果恵は思わず苦笑いを洩らした。
「相手はお客様ですよ。それに、同級生と言ったって当時殆ど喋ったことは無いし」
「喋ったことなくても互いに覚えてたんでしょ? それはそれですごいじゃん。縁を繋かないと、永遠に彼氏なんてできないよ」
 既婚者の台詞の重みに、果恵は思わず言葉を飲み込む。 同じようなことは結婚している友人たちからも説教されているが、そんな簡単にメルアド聞いたり飲みに誘ったりできれば苦労しないと、果恵はいつものように心の中で反論した。
「そもそも、また来るかも分からないですし」
「また来るって言ったんでしょ?」
「なっちゃんてば、そんなことまで……」
 どうやら由美と菜乃花のパイプは相当太いらしい。男の気配が皆無の果恵を常に案じている可愛い後輩は、聡の登場に当人以上に盛り上がっているようだ。

「もう来ないと思いますよ」
 溶けた氷で薄くなってしまった梅酒を飲み干すと、果恵はぽつりと呟いた。
「どうして?」
 不思議そうに、由美が問い返す。
「だって、仲良くもない知り合いがいる所にわざわざ泊まらなくても、周辺には他にもいっぱいホテルがあるじゃないですか」
 また来るという言葉に心が躍ったのは事実だ。けれども、時間をおいて冷静になってみればそれが社交辞令だと分かる。 場所柄この辺りにはビジネスホテルが集中しているのに、会っても気を使いながら話題を探さなければならないくらい微妙な知り合いのいる所に、敢えてお金を払って泊まりに来る理由は無い。 それが証拠に、利用はあの一度きりだ。
「ネガティブだねえ」
「これが普通ですよ」
 若い頃は、些細なことにも期待に胸を膨らませていた。例え叶わなかったとしても、期待すること自体が楽しかった。けれども、一喜一憂することにもそのうち疲れてしまう。 それならば、最初から過度の期待をしない方が落胆することもない。ないと思っていたのにあれば嬉しいが、ないと思っていたものがなくても別に悲しくはないのだ。
 聡とはもう会うこともないだろう。懐かしい人物との再会は、平凡な日常にちょっとした刺激をもたらしてくれた。けれども、それ以上の展開はドラマや漫画の中でしか起こりえない。
 何か言いたげな由美の視線に気づかないふりをして、果恵は運ばれてきた黒胡麻アイスにスプーンを入れた。予想以上に甘さが抑えられていて、少しだけ物足りなく感じた。

 


2013/03/21 


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