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ぎ出すカエル



 04. 追憶のカエル


 果恵が働くホテル・ボヤージュの主な客層はビジネスマンだ。その為、平日のチェックインは夕方から深夜の時間帯に集中する。
 フロントに立つ果恵はちらりと腕時計を確認した。時計の針は、間もなく六時を指そうとしている。 昼間のチェックインはまばらなので、フロントに立ちながら先の団体予約の確認などを行っているのだが、夕方からはチェックインに集中しないと片手間に別の作業をすることは難しい。 手にしていた手配書の束をしまうと、果恵はキャッシャー内の釣銭を確認してこれからやってくるチェックインの波に備えた。


「よう、果恵ちゃん!」
 自動ドアが開くと同時に、よく通る快活な声がロビーに響いた。
「いらっしゃいませ。明けましておめでとうございます」
 やって来たのは、果恵が入社する前から利用してくれている常連客だった。
 ホテル・ボヤージュが立地するのは、公官庁やオフィスビルが立ち並ぶビジネスエリアだ。その為、営業回りや会議参加などの理由で、定期的に利用してくれる客も多い。
 果恵の父は出張に縁遠い人だったので、ビジネスホテルで働き始めて、世の中にはこんなにも頻繁に出張している人たちがいるのかと驚いたものだ。
「おめでとうさん。果恵ちゃんは今年の正月も仕事かいな?」
「はい。でも、休みでも特に予定はないですから」
「べっぴんさんが、そんな寂しいこと言うてたらあかんやんか」
 常連客は勝手知ったるもので、チェックインもスムーズだ。気安い会話を交わしながら手早く手続きを済ませ、準備した鍵を差し出した。
「今年もどうぞ宜しくお願いします」
「こちらこそ。今年も世話になるで」
 そう言って豪快に笑うと、鍵を受け取った右手を軽く上げてエレベーターに向かった。大きな背中にごゆっくりどうぞと声をかけて向き直ると、常連客の後ろに並んでいた男性客がこちらに向かって進んで来た。

「725号室の鍵を預けていたのですが」
 眼鏡をかけたその男性は、果恵が立つフロントカウンターまでやって来るとそう声をかけた。
「筒井様でございますね。お帰りなさいませ、ごゆっくりどうぞ」
 キーボックスから鍵を抜き取り、両手で差し出す。
「ありがとう」
 穏やかな声でそう答えると、その人はゆっくりとした足取りでエレベーターに向かって歩いて行った。

 ―― きっと、気づいていないんだろうな。
 心の中でそう思う。ぼんやりと霞がかっていた記憶は卒業写真のおかげでくっきりとその輪郭が浮かび上がり、今の姿にぴたりと重なり合った。
 けれども、だからと言って声をかける勇気はない。

 チンと音が鳴り、エレベーターの扉が開く。降りる客を待って乗り込もうとしていた彼が不意に振り返ると、ちらりとフロントカウンターに視線をやった。
 その瞬間、こっそりとその背中を見送っていた果恵は聡と目が合い、思わずたじろいでしまう。慌てて笑顔を貼り付け、ぺこりと頭を下げる。 それに対して微かな会釈で返すと、彼はそのまま黙ってエレベーターに乗り込んだ。




 その日、中番の果恵が帰宅したのは八時過ぎだった。繁忙期は毎日残業の日が続くが、一年で一番暇なこの時期は比較的早く上がることができている。
 冷蔵庫に残っていた野菜とツナ缶を適当に炒めて作ったパスタを皿に盛ると、グラスに注いだ水と共に小さなテーブルに置いた。 早く帰れた日はできるだけ自炊するようにしているが、残業の日は疲れて作ることができないことも多いのであまり食材を買い込むことができない。
 もともと両親が共働きだったのである程度の料理はできたが、ひとり暮らしを始めて手抜きのメニューばかりが上手くなったような気がする。
「いただきます」
 そうひとり言ちて手を合わせると、フォークを手に取りパスタを巻きつけた。音が無いことが寂しくてテレビをつけてはいるが、あまり興味が持てる内容ではないので聞き流している。
 空腹だったので多めのパスタをもくもくと平らげると、果恵はフォークを置いてほっと息を吐いた。その瞬間、低く空気を震わせる音がした。
 誰からだろう? そう思いながら果恵はクローゼットの脇に置いていた鞄に手を伸ばすと、バイブ設定にしていた携帯電話を取り出した。その瞬間、何かが引っかかって鞄からぽろりと落ちた。

「あ……」
 果恵はフローリングに敷いたラグの上に落ちたその物体に手を伸ばした。それは、薄汚れたピンク色のカエルのぬいぐるみキーホルダーだった。
『果恵にぴったりでしょ?』
 そう言ってけらけらと笑いながら、中学三年生の時に友人たちが果恵の誕生日にプレゼントしてくれた。 派手なピンク色のカエルはどこか愛嬌があって、一目で気に入った果恵は卒業するまでずっと通学鞄につけていた。 高校に入学し、いつのまにかその存在を忘れていたが、昨日実家でアルバムを見ていた時に押入れの中からひょっこり出てきたのだ。 無性に懐かしさと嬉しさが込み上げてきて、果恵はそのままその色あせたカエルを鞄に入れて持ち帰ったのだった。
 十五年以上前と同じように満面の笑みを浮かべたカエルを、果恵はそっと撫でた。すると中学時代の記憶が甦り、瞼の裏に眼鏡をかけた真面目そうな男子生徒の姿が浮かぶ。 やがてその姿は現在の果恵と同じ年代の、大人の男性に変わってゆく。

 彼は、筒井聡は、わたしのことを覚えているだろうか ――。
 心の中で、果恵は問うてみた。果恵を見つめ返すカエルのつぶらな瞳は、‘覚えてるわけないじゃん’と無邪気に笑っているようだった。

 果恵と聡は、中学三年の時に同じクラスになった。それ以前もそれ以降も関わりはなく、十五歳の一年間だけを同じ教室で過ごしたクラスメイトのうちのひとりだった。
 当時の果恵は、気の合う女子四人で一緒に過ごすことが多かった。気さくに話しかけてくれれば喋ったが自分からは積極的に男子に話しかけることはなく、告白したりしている大人びたグループの女子たちを少し羨ましく感じながら、それでも同性だけで過ごす時間を気楽に感じていた。
 聡もまた、積極的に異性に話しかけるタイプではなかった。仲の良い男子とは冗談を言い合ったりしていたが、常に落ち着いていてどこか大人びた雰囲気があった。
 そんな果恵と聡が言葉を交わしたことは、殆ど無い。委員が一緒になるとか何かの行事で同じ班になるとかいったことは一度もなく、席が近くになったことすらなかった。

‘ほら、そんなんじゃ覚えてるわけないじゃん’
 手の中のカエルが笑う。そうだよねと、果恵は心の中で呟いた。
 三泊の予定の聡は明日チェックアウトする筈だ。例えばこの辺りが営業担当になったという理由で今後も利用してくれる可能性もあるが、今回たまたま宿泊しただけでもう二度と来ない可能性も高い。


「そうだ、メール……」
 わざと声にしてそう言うと果恵は手の中のカエルをテーブルに置き、代わりに、先程メールの受信を知らせていた携帯電話に手を伸ばす。 そして友人からのランチの誘いに返信する為、今月のシフトが記されたスケジュール帳を開いた。
 つけっぱなしのテレビからは、お笑い芸人たちの笑い声が響いていた。

 


2013/03/12 


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