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イトコ



 あたらしい関係 3


「じゃあ、行ってくるわね」
「行ってらっしゃい」
 土曜日の午後。玄関先でこちらを振り返った母が、志穂子に声をかけた。
「お土産はケーキで良いかい?」
「うん! 今日はシフォンケーキが良いな」
「了解」
 母の隣に立つ和彦が問いかける。志穂子が即答すると、彼は笑いながら片手をあげた。
「行ってらっしゃい。楽しんで来てね」
 志穂子がそう言って手を振ると、ふたりは嬉しそうに微笑んで出かけて行った。
 今日は本町の駅前にあるコンサートホールで、ふたりが若い頃に一世を風靡したシンガーソングライターのコンサートが催されるらしい。 和彦の取引先がスポンサーになっているそうで、懇意にしている営業担当からチケットを譲り受けた和彦が母を誘ったのだ。
 結婚当初は志穂子に気がねしているのか、あまりふたりで出かけることは無かったが、最近は月に何度かふたりきりで映画や食事に出かけている。 新しく家族になって間もなく一年を迎えようとし、志穂子たち三人は少しずつ、確実に家族として絆を深めていた。

 玄関の内鍵をかけてリビングに戻った志穂子は、ソファに腰かけた。そのままごろりと横になる。
 ふたりはコンサートのあとに食事をして帰る予定なので、夜まで志穂子はひとりきりだ。本当はコンサートのあとに合流して一緒に食事をしないかと和彦に誘われたが、志穂子はそれを断っていた。
 何回かに一回は一緒に食事に行くのだが、自分がいても良いのかと未だに気を使ってしまう。 そんなものは無用なのだと、家族なんだから普通に甘えれば良いのは分かっているのだが、色々と余計なことに気を回してしまうのは性分だから仕方がない。 もともと他人だった三人が家族になったのだから、遠慮や気がねをするのは当然で、少しずつ時間をかけて壁を取り払っていこうと最近は開き直っている。

 誰もいない家の中は無音だ。けれどもテレビをつける気にはならず、志穂子は横になったままの状態でぼんやりと宙を見つめていた。
 不意に、昨日の記憶が蘇る。昨夜から何度も何度も志穂子の脳内でリプレイされたシーンはまたも同じところから再生され、そして同じところで耐え切れずに強制終了する。 油断をすればそれはすぐに繰り返され、もはや現実だったのかどうかさえ自信がない。あまりにも近くで感じた体温を思い出し、志穂子は恥ずかしさのあまりクッションに顔を埋めて身悶えた。
 今日、母と和彦のデートに便乗しなかったのはこのせいだった。美味しい料理が出されても、今の志穂子はきっとすぐに上の空になってしまうだろう。 そしてそれを鋭い母に指摘されても、不器用な志穂子には誤魔化す自信がないのだ。けれどもひとりきりで家の中にいると、否応なく昨日のことを思い出してしまう。 気を紛らわす為にやはり一緒に外出すべきだったのだろうかと、ソファの上で丸くなりながら志穂子は悶々と悩んでいた。

(よし、買い物にでも行こう)
 夕飯はひとりなので手軽に済ませるつもりだが、あいにく冷蔵庫には殆ど食材が残っていない。気分転換を兼ねて、志穂子は近所のスーパーへ食料の調達に行くことにした。
 気合を入れて起き上がると、全身の筋肉が悲鳴を上げる。情けないことに、普段体育の授業以外で運動をしない志穂子は昨日のマラソン大会で全身が筋肉痛だ。 へっぴり腰で歩く姿に母は大笑いだったが、筋肉痛がその日のうちに出るのは若い証拠だと虚勢を張ることしかできなかった。
 冷蔵庫を開けて残っている食材を確認し、自分の部屋にコートとマフラーを取りに行く。財布を入れた鞄を肩からかけて玄関のドアを開けると、志穂子はそのまま呆けたように空を見上げた。
「雪……」
 思わずひとり言ちる。灰色の空からは、白い粉雪がはらはらと舞い落ちていた。

 当初は自転車で行くつもりだったが、雪が降ってきたので徒歩でスーパーに向かうことにする。できるだけ筋肉痛を感じないように、そろそろと注意深く歩き出した。
 土曜日の午後の住宅街は静かだ。音もなく雪が降る中で、志穂子の心も少しだけ落ち着いてきた。大きくひとつ息を吐くと、瞬時に空気が白く染まり、やがてゆっくりと消えてゆく。
 家を出て五分ほど歩くと、交差点にたどり着いた。そこで足を止めた志穂子は、左手に行くべきが右手に進むべきかを迷っている。 左手に行けば目的地であるスーパーがあるのだが、右手に進めば圭介の家だ。青だった前方の信号がちかちかと点滅し、赤に変わる。目の前を行き交う車をぼんやりと見やりながら、ぐずぐずと考える。 やがて二度信号が変わるのを眺めたあと、志穂子は大きく深呼吸すると、右手の道をゆっくりと歩き出した。



* * *   * * *   * * *



 昨日、志穂子ははじめて圭介が走る姿を見た。その目は力強く、心臓がとくりと音をたてた。
 けれども、真っ直ぐにゴールを見据るまなざしの強さとは対照的に、その足取りは重く感じられる。体全体が気だるそうで、もしかして体調が悪いのではないかとはらはらしながら彼のゴールを見守った。
 志穂子の心配をよそに、圭介は先にゴールしていたクラスメイトと普通に会話をしているようだ。気のせいだったのだろうか。 誰も違和感を感じていないのかと、志穂子は隣で声援を送っている友人たちを見やったが、視線の先は皆ばらばらだ。傍らの志乃も別の方向を見ていて、特に何も感じていないようだ。
 視線の端でこっそりと捕らえていた圭介が、クラスメイトと離れて何処かへ向かう。何となく不安を感じ、志穂子は友人たちにトイレに行くと声をかけてその場を離れた。校舎の裏手へ向かう彼のあとを小走りで追う。 どうやら喉が渇いていたようで、顔を洗ってがぶがぶと水を飲んでいた。
 取り越し苦労だったのだろうか。ストーカーのようにつけてきた自分の行為が急に恥ずかしくなって、志穂子が友人たちのもとへ戻ろうとしたその瞬間、彼に気づかれてしまった。 一瞬身構えてしまったけれど、圭介は志穂子がその場にいたことを単なる偶然だと思ったらしい。特に理由を尋ねられることもなく、いつものように端的な質問と端的な答で構成された細切れの会話が繰り広げられる。
 本当は、もっと気の利いたことを言いたかった。幼馴染の太一や志乃のように、仲の良い星田や照井のように、自分も圭介と他愛ない軽口を言って笑い合いたい。 そして冗談に紛れて、走る姿が素敵だったと志穂子は圭介に伝えたかった。
 けれども、口下手な彼女にそんな芸当ができる筈もない。ましてや恋心を自覚したばかりで、恥ずかしくて圭介の顔すら真っ直ぐに見ることができないのだ。

 そんな自分のつまらなさに志穂子がそっと溜息を吐いた瞬間、目の前の圭介の体がぐらりと揺れた。咄嗟に彼のもとに駆け寄る。
「……名前」
 乾いた唇から、掠れた声が洩れる。その言葉に、志穂子は無意識のうちに彼の名前を呼んでいたことを自覚した。慣れ慣れしいと思われるのが怖くて、ずっと躊躇して呼べなかった彼の名前。 ただ一言そう発しただけなので、水飲み場に体を預けて立っているのがやっとの彼がどう感じたのかは読み取れない。
 とりあえず保健室へ連れて行くのが先決だと思い、半袖の体操服から伸びた彼の腕を掴む。鍛えられて程良く筋肉のついた腕は、予想以上に熱かった。こんな高熱があるのに、十キロも走ったというのか。 陸上部に所属しているのだから当然走ることが好きなのだろうけれど、それだけで、あの距離をあの順位で走破できてしまうものなのだろうか。
 志穂子は圭介の腕をとって何とか保健室に向かおうとするのだが、彼の意識は朦朧としてきたのか足が一歩も動かない。やがて、ぐらりと頭が揺れるとそのまま志穂子の肩口にもたれかかってきた。 ジャージ越しに伝わる体温は怯んでしまうくらいに高く、一刻も早く保健室へ連れて行きたいのだけれど、志穂子よりも遥かに長身の圭介をひとりで運ぶことなど到底不可能だ。 かと言って、志穂子という支えが無くなってしまえば彼は倒れてしまうので、この場を離れて誰かを呼びに行くこともできない。泣きそうになりながら、ただ志穂子は圭介の名前を呼び続けることしかできなかった。

「藤原さん!?」
 不意に、背後から男子生徒の声がした。首だけ向ければ、そこには太一と名前は知らないが圭介のクラスメイトが立っていた。
「加藤くん! 圭介くんがすごい熱なの!!」
 男子ふたりがやって来たことに安堵して、志穂子は涙声で説明した。慌ててふたりが駆け寄って来る。
「何が大丈夫だよ、この馬鹿がっ」
「野本、気持ちは分かるけどまずは保健室に運ばないと。こいつは俺たちで連れて行くから、藤原さんは先生に報告しに行って」
 そう言うと、太一が圭介の腕を自分の肩にまわす。野本と呼ばれた生徒も反対側から圭介を支えた。
「ありがとう。じゃあ、わたしは先生の所に行って来る」
 男子ふたりに圭介を任せると、志穂子はグラウンドにいた圭介の担任教諭に事情を説明し、そのまま保健室へ向かって養護教諭にもこれから高熱の生徒が運ばれて来ることを伝えた。

 結局、三十九度まで熱が上がった圭介は自力で帰宅することができず、連絡を受けた圭介の父親が車で迎えに来たらしい。 マラソン大会が終わり、各クラスでホームルームを終えたあと、廊下で偶然すれ違った野本が志穂子にそう教えてくれた。
「あいつ、走ってる間ずっと咳込んでてさ」
 倒れるまで我慢するなんて馬鹿だとぶつぶつ呟いていて、どうやら野本の怒りはまだ収まってはいないようだ。 同じ陸上部だという彼は圭介と同じ先頭グループで走っていたらしく、体調が悪そうな彼の様子をずっと心配していたのだろう。
「まあ、一晩寝たら治るだろうから、そんなに心配する必要はないさ」
 表情を曇らせる志穂子を安心させるように、野本が口調を変える。そんな彼の気遣いに志穂子はぎこちなく笑みを浮かべると、小さく頭を下げて階段へと向かった。
「藤原さん」
 背を向けた志穂子に、野本が背後から呼びかける。振り返ると、笑って手を振っていた。
「心配なら、あいつ見舞ってやってよ。すぐ元気になるからさ」

 野本にそう言われたものの、きっと寝込んでいるだろうと思い、そのまま志穂子はまっすぐに下校した。 ひとりでお見舞いに行きづらいなら一緒について行くよと志乃は言ってくれたが、ゆっくりと休んで欲しいから行くつもりはないと断った。
「せっかく弱っている圭介が見られると思ったのになあ」
 志穂子を元気づける為に、わざと憎まれ口を叩く志乃に思わず吹き出す。
「圭介は小さい頃から滅多に風邪なんてひかなかったから、どのくらい無理したらヤバイか逆に分からなかったんだろうね」
 呆れたように志乃が言う。志穂子は小さく頷くと、電車の窓から見える冬の景色をぼんやりと眺めた。

 その日の夜は結局、志穂子は殆ど眠ることができなかった。
 気づけば、熱は下がっただろうかご飯はちゃんと食べられただろうかと、圭介のことばかり考えていた。 そして彼の走る姿を思い出し、水飲み場での一連の会話と、触れた時に感じた彼の体温を思い出す。
 圭介のことを考えると、自分も熱があるのではと錯覚するくらいに志穂子の頬は火照っていた。

 


2012/08/27 


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