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イトコ



 熱い背中 6


 夏休み最後の日は、朝から太陽が照りつけていた。前日の天気が嘘のように気温は上がり、まだ夏は終わらないと主張しているかのようだ。
「おはよう」
 Tシャツとショートパンツに着替えて階下に降りると、志穂子はおずおずとリビングに入った。学校は明日からなのでもう少し眠っていても良かったけれど、朝一番でもう一度前夜のことを謝っておきたかった。 和彦は当然仕事なので、朝のタイミングを逃すと夜まで待たなければならないのだ。

「ちょっと志穂! あんた何、その顔!?」
 勇気を出して口を開きかけた瞬間、志穂子の顔を見た母が笑い出した。
「目が腫れて、お岩さんみたいになってるわよ」
 そう言われて慌てて手で目を覆う。起きた瞬間に目が腫れぼったい感じはしていたし、実際鏡を見て腫れているのも分かっていた。あれだけ泣いたのだから当然だ。 けれど昨日の今日なのでそこは触れずにいてくれるかと思ったけど、母はあっけらかんと指摘したのだった。
「もう、そこはスルーしてよ」
「ちゃんと冷やさないと、せっかくの美人さんが台無しだよ」
 コーヒーを飲みながら朝刊を読んでいた和彦も口を挟む。さすがに笑ったらまずいと思ったのか堪えているが、隠し切れてはいない。
「もうやだ、見ないで……」
 そう言うと、志穂子は冷凍庫からアイスノンを取り出してリビングに避難する。そのままソファに仰向けになり、そっと目頭に当てた。

 謝るタイミングを無くしたなと、目を閉じながら志穂子は苦笑した。きっと母の作戦だろう。
 昨日の夜、圭介に連れられて帰って来た志穂子を、母は何も言わずにただ抱きしめた。代わりに志穂子を叱ったのは、仕事を終えて迎えに来てくれていた和彦だった。 我慢をするな、もっと我儘になれと真剣な顔で怒る様子は、きっと本気だったんだと志穂子は思う。我儘を通したのは自分の方だから、志穂子も遠慮をしないで欲しいと彼は言った。
 結局、圭介の言う通りだったのだ。素直に気持ちを伝えていれば良かったのに、自分の感情も上手くコントロールできないくせに無理をして、身動きがとれなくなって周囲の人たちに迷惑をかけてしまった。
「おっと、もうこんな時間だ」
 身支度を終えた和彦が家を出るようだ。玄関へ向かう彼のあとを、パタパタと追う母の足音が聞こえる。のそりと、志穂子は上体を起こした。


 昨晩、母が風呂に入っている間、志穂子と和彦ははじめてふたりきりでじっくりと話をした。
「志穂ちゃん。僕はね、君の父親になりたいと思ってるわけじゃないからね」
 俯く志穂子に、和彦は言った。一瞬ネガティブな解釈をしてしまい、気持ちが冷える。それを見透かしたように、和彦が言葉を繋いだ。
「君のお父さんはたったひとりだけだ。何処にも代わりなんていないし、誰にも代わりなんてできやしない。だから無理に、僕のことを父親だと思おうとしなくても良いから」
 和彦の言葉に、志穂子はどきりとした。本当は、和彦との関係性に戸惑っていたのだ。母と再婚したのだから、父と思うべきなのだろうか。 けれども、彼は母のことが好きなのであって、志穂子はただの連れ子なんだからそう思われるのは迷惑なのではないだろうかと悩んでいた。
 それよりも何よりも、この人を父としてしまえば亡くなってしまった本当の父の存在が消えてしまいそうで、それがどうしても嫌だったのだ。
「だけど僕は僕なりに、ちゃんと志穂ちゃんのことを大事に思ってるから。それは覚えておいてね」
 父を亡くした母が好きになったのが、この人で良かったと志穂子は思った。そしてこの人が母を好きになってくれて良かったと、心の底からそう思った。

 志穂子が玄関に行くと、和彦は靴を履いているところだった。
「志穂ちゃん、しっかり冷やしときなよ」
 見送りに来た志穂子の姿を認めると、和彦が悪戯っぽく笑う。今までは互いに遠慮していたけれど、こんな風に冗談を言ってくるのは彼も何か吹っ切れたのだろう。 考えてみれば、和彦だって志穂子との関係にずっと手探り状態だった筈だ。
「ちゃんと冷やします」
 そう言って志穂子は口を尖らせる。そんな様子を見て、母は嬉しそうに笑っていた。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい、和彦さん」
 志穂子ははじめて和彦の名前を呼んだ。何と呼べば良いのか分からなくて、ずっと誤魔化してきたのだ。少し驚いたように目を見開くと、和彦は片手を上げて出て行った。


「さてと。朝ごはん食べたら、久しぶりにマドレーヌでも焼こうか」
 和彦を見送ると、母は志穂子に向き直って唐突に言った。
「え、マドレーヌ?」
 予想もしなかった提案の意図が分からず、志穂子はじっと母を見つめる。
「そう。美味しいマドレーヌを作って、圭くんちに持って行ってらっしゃい」
 そういうことかと、母の言葉に志穂子は黙って頷いた。
 昨晩、志穂子は金澤家の人たちにひどく迷惑をかけた。 家中の人が志穂子を心配し、帰りを待っていてくれたのだ。 けれどもその時は全ての感情を圭介に吐露したあとで気持ちが昂ぶっていて、きちんとお詫びの言葉を口にできないまま和彦の車に乗せられて帰宅したのだ。

 手早く朝食を済ませると、志穂子は材料を取り出した。幼い頃から何度も母と作ったことがあるので、作り方は頭に入っている。
 志穂子が小麦粉や卵を準備し、母は戸棚の奥から型を取り出してテーブルの上に並べていった。
「あっちは、変わってなかった?」
 てきぱきと動きながら、母が問いかける。小麦粉の分量を量る為に真剣に目盛りを見つめていた志穂子は、一瞬何の話か分からず母を見やった。
「あの町よ」
 父と母と志穂子が住んでいた、あの町のことだ。
「殆ど変わって無かったけど、お化け屋敷だけが劇的に変わってた」
「へえ、どんな風に?」
「お洒落なケーキ屋さんになってた」
 小麦粉をふるいにかけながら志穂子がそう答えると、母は驚いたように目を丸くした。きっとあの廃屋を知っている人は、誰だって信じられないだろう。
「みんながそこを予約してくれてて、バースデーケーキをご馳走してもらったよ」
 そう言うと、志穂子はキッチンカウンターの向こう側を見やった。リビングのローテーブルの上には、薄紫色の石のストラップが付いた携帯電話が置かれている。

「良いなあ。美味しかった?」
「うん、すごく美味しかった。でも、お店の雰囲気が大人っぽくて、ちょっと緊張した」
 正直な志穂子の感想に、母が思わず吹き出す。
「千明ちゃんも宏美ちゃんも香織ちゃんも、みんな良い子たちね」
 卵と小麦粉を混ぜ合せながら、志穂子は母の言葉に頷いた。
 母と和彦からのバースデープレゼントは、携帯電話だった。特に持っていなくても困らないが、周囲の人たちの殆どが持っているので憧れが無いと言えば嘘になる。 風呂に入ってようやく気持ちが落ち着いた頃に母から小さな箱を差し出されて、志穂子は再び泣きそうになった。
 すぐに千明たちからもらったストラップをつけ、四苦八苦しながらメールを送る。 圭介から志穂子を見つけたという連絡を受けた時点で、取り急ぎ母は千明の家に報告していたようだが、事情が分からない彼女たちは当然ひどく心配していたそうだ。 つい数時間前まで一緒に話していたのだから当たり前だろう。メールを送信した瞬間に千明から電話がかかってきて、思い切り叱られた。

『だから言ったのに、志穂の馬鹿! 作り笑いで自分の気持ちを誤魔化すな!!』
 受話器の向こうから涙声で、馬鹿を連呼された。どれだけ幼馴染たちが自分を心配してくれていたのかが伝わって、志穂子はただごめんと謝り続けるしかなかった。
『ううん、そうじゃない。志穂が昔から自分の気持ちを後回しにする性格だってことを知ってたのに、気づけなかったわたしが一番馬鹿だ……』
 そう言うと、千明は嗚咽を洩らした。自分を責めている千明に、志穂子は死ぬ程後悔した。
「違うの。全て千明はお見通しだったのに、わたしが自分の弱さに気づいてなかったの。 ちゃんとそれを自覚したから、これからは辛いことがあれば千明たちに頼るから、だからそんな風に謝らないで」


 千明たちに誕生日を祝ってもらって幸せだったのは本当だ。けれど、志穂子の誕生日はいつも亡き父を想う日であり、彼女たちと別れたあとにどうしても志穂子はひとりで父との思い出に浸りたかった。
 だから志穂子は、父との最後の思い出が詰まったあの公園を訪れた。緑が生い茂る広大な公園は、ベンチや遊具が少し変わってはいるものの、八年前と殆ど変りが無い。 父が入院していた病院を臨むことができるベンチに腰かけると、志穂子は記憶に残っている父の姿をひとつひとつ思い起こしていた。 けれども、懐かしさは寂しさを呼び起こし、やがてそれは幸せへの罪悪感へと形を変える。

 ―― 本当なら、父と母と三人で暮らしている筈だったのに。

 いつも心の片隅に、影のように居座る気持ち。父が病気でなければという仮定を、何度も何度も頭の中で打ち立てる。 母が父以外の人を選んだことへの寂しさと、新しい家で幸せになることに対する後ろめたさが湧き上がる。 これまでは考え込みそうになったら思考に蓋をして追いやっていたのだが、思い出がいっぱい詰まった町を訪れて色んな感情が溢れ出してしまい、蓋をすることができなくなっていた。 気づけば薄闇が広がる公園で、考えても仕方のないことを悶々と考えていたのだ。
 早く帰らねばと、心配している母を思いながらも足取りは重い。あの大きく明るい家で、母と和彦とご馳走を囲みながら誕生日を祝ってもらう気にはなれなかった。 じゃあ、家族を残して逝ってしまった父の無念はどうなるのかと。父だって、幸せになりたかった筈なのに……。
 とりあえず電車には乗ったものの、志穂子は駅から動けなくなってしまった。本当は、こんな風にうじうじとしている志穂子を父が見たら哀しむことは分かっていた。 父は、志穂子と母の幸せを世界で一番願っていた人なのだから。 結局は、逃げだった。良い子ちゃんぶって理解があるふりをしているけれど、要は自分の気持ちの折り合いすらつけられなくて逃げているお子さまだったのだ。

 


2011/11/24 


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