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散らない日葵



9. 懸命に生きてきた世界、あるいは未知の世界


 結局、泣いている浜崎の手を握ることしかできなかった律子は、少し落ち着きを取り戻したタイミングで休憩に行くように指示した。本当は今フロントに立っている三宅の方が先にとる筈だったが、赤くなった目でフロントに出ることはできないので順番を代わらせたのだ。
 社長の口からこのホテルがなくなることが告げられたあの日以降も、同僚たちは誰ひとり態度を変えることはなかった。閉館するという事実を禁句にしたわけではない。ただ、休憩室に積み重ねられた海外旅行のパンフレットが示すように、現実を前向きに受け止めようと皆が必死だった。本当は、誰もが春以降どうすべきか不安を抱えている筈なのに。
 けれども律子は、浜崎の涙を見るまでそれをどこかで失念していた。キャリアが浅いままに人生の選択を迫られる若い後輩たちのことを、思いやるところまでの余裕がなかったのだ。急激に情けなくなって、律子は深い溜息を吐く。その瞬間、不意に事務所の扉がガチャリと開く音がした。

「矢野、何かあったのか?」
 やがて扉が開くと、聞き馴染んだ声が少し訝しげに尋ねてきた。
「あれ、早かったですね」
 てっきり真理たちが作業を終えて戻って来たとばかり思っていたが、事務所に入って来たのは外出していた筈の辻内だった。ぼんやりと佇んでいた律子は反射的に振り向くと、何でもない風を装って笑顔を貼り付けた。
「アポとアポの間が無駄に空いてたんだけど、先方の都合で時間が早まってスムーズに回ることができたんだ」
「それは良かったですね。話はまとまりましたか?」
「何とか決着がついた」
 辻内はほっとしたような表情を浮かべながらそう答えた。
 ソレイユホテル本宮中央では春以降の個人予約はまだ受け付けていなかったが、団体予約は既に数件受けていた。辻内と寺本で旅行会社や取引企業へ閉館の連絡に回る際、これらの団体については別のホテルに変更してもらうよう依頼していたのだが、とある企業だけが納得できないと揉めていたのだ。半年以上先の仮予約なので他の予約は比較的スムーズに近隣の競合ホテルや別のソレイユホテルに受け入れが決まったのだが、迷惑をかけられる分安くしろと要求され、予想外にその企業と交渉が難航していたようだ。けれど、閉館は決定事項なのでどうすることもできない。部長と辻内で先方の担当者を何度か訪ねていたのだが、どうやらようやく他館への変更を了承してくれたようだ。
「お疲れさまでした。あとで手配書の処理はしておきます。ところで部長はご一緒じゃないんですか?」
「さっき蕎麦屋に向かう支配人と寺本さんとすれ違って、部長もふたりに合流された」
「お昼まだだったんですね。課長は一緒に行かれなくて良かったんですか?」
 時計は十三時をとうに過ぎている。律子がそう尋ねると辻内は曖昧にうんと答えながら、もう一度最初の質問を繰り返した。
「何か、あったのか?」

「何もないですよ」
 律子は辻内の顔を見上げながら、そう言ってへらりと笑って見せた。
「嘘つけ、あんな顔しておいて」
「どんな顔ですか?」
「フロントデビューしてすぐの頃、内線で追加のタオルを頼まれたのに部屋番号を控え忘れて、おろおろと泣きそうになっていた時の顔だ」
「ちょっと、そんな新人の頃の黒歴史を持ち出さないでくださいよ!!」
 律子は予想もしなかった言葉に、赤面しながら噛みついた。なまじ一緒に働いた年数が長いと、こちらの忘れたい失敗をいくつも知られているので性質が悪い。ましてや相手は指導担当者だ。決まり悪くなってふいと目を逸らすと、頭上から見下ろされる視線を感じた。
「……寺本さんか?」
 やがて小さく呟かれた言葉は、語尾が上がって疑問形の形ではあったものの、どこか確信しているような口ぶりだった。

「やっぱり、もうご存知でしたよね」
「昨日聞いた。さっきすれ違った時に、矢野にも伝えたと言ってたからさ」
 もしかして、律子のことを気にかけて昼食をとらずに戻って来てくれたのだろうか。寺本も律子も異動がなく、もっとも長く一緒に働いてきたのでショックを受けていると心配してくれていたのだろうか。それは自惚れすぎだろうと思いながら、けれどもこういう時にさりげなく気遣ってくれるのが辻内という人なのだ。だから安心させなければ。律子は顔を上げると、高い位置にある辻内の目をまっすぐに見つめ返した。
「ずっと一緒だったから寂しいですけど、良い条件で次が決まったのならおめでたいことです」
 それは嘘ではない。きっぱりとそう言い切ると、律子は少し眉を寄せて声を落とした。
「ただ、浜ちゃんが少し動揺していたのが心配で……」
「浜崎が?」
「はい。ずっと明るく振舞っていましたけど、今まで抑え込んでいた不安が一気に溢れてしまったみたいです」
 律子が説明すると、辻内は手を顎に当てて考え込むような表情を見せた。
「考えてみれば彼女はまだハタチそこそこで、不安に決まっているのにそんな様子を見せないから、無理していることに気が付いていなくて。わたし、何も言ってあげられなかった」
 そう言って律子が目を伏せると、励ますような明るい声が頭上からかけられた。
「たぶん浜崎は一度全部不安を吐き出して、それを矢野に受け止めてもらって、今頃は少し気持ちが軽くなっているんじゃないかな」
「でもわたし、何もできなかったですけど」
「聞いてやるだけで違うさ。それにこれは、俺たち全員が最終的に自分自身で決めないといけないことだしな」

 それは正論だった。おかれた状況は皆同じで、聞いてやることはできてもそれ以外に律子にしてあげられることは何ひとつない。それに律子だって、春以降の身の振り方は決まっていないのだ。
「浜崎のことは、俺も気にかけておくから」
 辻内の言葉に、律子はお願いしますと頭を下げた。胸に微かな安堵が広がるのを感じながら、この期に及んで上司に頼っている自分が情けなくもあった。
「ついでに、矢野のことも気にかけているから」
 そっと唇を噛むと、予想外の言葉が降ってくる。驚いて見上げると、高い位置から真っ直ぐに見つめられていて不覚にも動揺した。
「ついでですか?」
 そう言って、わざと不貞腐れてみる。本当は、ついででもおまけでも嬉しかった。
「何だ、文句あるか」
「ないです。教官に気にかけていただき恐縮です!」
 大袈裟に首を横に振ると、律子は笑って見せた。
 辻内と一緒にいられるのはあと僅かだけれど、もう彼に心配をかけないよう、いい加減逃げずに先のことを考えよう。彼女の言葉に満足げに胸をそらせた辻内を見つめながら、律子はようやく現実と向き合う覚悟を決めた。


   ***


 当然のことながらホテルに定休日はなく、年末年始も変わらず律子たちは働いていた。ただしビジネス客をメインターゲットにしているので、クリスマスを過ぎた頃から正月の間は稼働が落ち着いている。
 そんな中で、十年間一緒に働いてきた寺本がひと足早くソレイユホテル本宮中央を去った。

「そう言えば、寺本マネージャーは昨日が初出勤だったんですよね」
 閑散としたロビーで、隣に立っている小久保がそう口を開いた。昨日が仕事始めという企業は多い筈だが、初日から出張に出るビジネスマンはさすがに殆どいない。かと言って正月休みも終わった為に観光客も少なく、チェックアウトの客はまばらだった。
「ああ、本当だね。次のところは去年オープンしたばかりのホテルらしいし、きっと綺麗なんだろうなあ」
「夜中に暇だったから滝さんとホームページ見ていたんですけど、大浴場があるみたいですよ」
「最近はそんなホテル多いよね」
 本人が気にしていたとおり、閉館するホテルなので寺本の抜けた穴の補充はない。けれど管理職だったのでシフトに入る日はさほど多くはなく、彼が辞めてもフロントが回らなくなるというほどではなかった。ただ、こうしてこれからひとりふたりと抜けてゆき、春には皆がばらばらになってしまうのだという寂しさだけがそこにあった。
 静かなロビーで手持無沙汰の律子と小久保が、けれども寂しさを押し隠してのんびりとした会話を続けている。するとポーンと軽やかな音をたてて、エレベーターの扉が開いた。

「おお、矢野さん。あけましておめでとうさん」
「水野様、あけましておめでとうございます」
 エレベーターから大きな体を揺らしながら降りて来たのは、常連客である水野だった。彼はこのホテルのすぐ先に本社がある菓子メーカーの大阪支店に勤務しているらしく、毎月月初と月半ばの二度、本社会議に出席する為に利用してくれている。昨日は新年互礼会が開催されていたそうで、年明け早々の出張となったようだ。
「ところで矢野さん、聞いたで。このホテルは三月末でなくなってしまうらしいやないか」
 ルームキーを差し出しながら、水野は少し声を落としてそう尋ねてきた。十一月のはじめに従業員に告知されたあと、まずは取引先の旅行会社や企業に対して、閉館に伴い契約を終了する旨の通知を行った。そして年が明け、いよいよ一般のゲストに対しても告知されたのだ。ホテル公式サイトに正式に掲載され、ロビーの掲示板にも案内が貼り出されている。常連客には直接伝えるようにと引継ぎがあったばかりなのだが、早速昨日のチェックイン時に誰かが伝えたのだろう。
「ここは本社に近くて便利やし、何よりもみんながようしてくれるさかい、閉まってしもうたら寂しいわ」
「わたくしも、水野様とここでこうしてお話できなくなるのが寂しいです」
 常連客の言葉は心に沁みて、鼻の奥がツンとした。水野だけではない。一見の客も多いが、このホテルを出張時の定宿にしてくれている人もたくさんいるのだ。長く働いていると多くの常連客と顔馴染みになり、水野のように雑談を交わすこともある。もちろん無駄な会話を望まない人もいるが、常連客によって階段で移動できる下層階を好む人や西側東側など好きな方角が決まっていたりして、さりげなく好みの部屋を用意すると笑顔を見せてくれることもある。そんな些細なやりとりが嬉しかったりするのだが、これまで築き上げてきた関係性は間もなく終わりを迎えるのだ。それはとても哀しく、けれどゲスト側も閉館を惜しんでくれることはありがたかった。

「わたくし共は閉館してしまいますが、三月末まではどうぞ変わらずご利用くださいませ」
「ああ、もちろんや」
 そう言って律子が笑みを浮かべると、水野は大きく頷いて、いつものように次回の宿泊日を告げた。領収書を渡して予約を入力し、笑顔で見送る。それがいつの間にか決まった水野のチェックアウトの流れなのだが、何故か今日はその場を立ち去ろうとしない。まだ何かあるのだろうか。そう考えながら水野を見やると、やがて彼は意を決したように口を開いた。
「なあ矢野さん、あんたはこれからどないするか決まっているんかいな?」
「いえ、これから探すつもりです」
 そのような質問をされるとは思っていなかったので少し戸惑いながら、けれども律子は正直にそう答えた。
「うちの会社は全国六ヶ所に支社があってわしは大阪におるんやけど、春に各支社の営業を統括する部署が新たに本社に設立されることになり、そこの責任者としてこっちに異動することになったんや」
「さようでございましたか」
 先程は閉館することを寂しいと言ってくれたが、春に異動して来るのならどちらにせよここに泊まることはないだろう。話の意図が見えず、相槌を打ちながら律子はちらりと水野の表情を窺った。

「それでな、社内異動だけで人は足りへんから事務員を新たに雇うことになってるねん。なあ矢野さん、良かったらうちで働く気はないか?」
 それは、まったく予期しない言葉だった。パニックになりながら律子の頭にまず浮かんだのは、何故自分なのかという疑問だった。
「あ、ありがとうございます。でもわたしは……」
 ホテルのことなら多少は分かる。けれども菓子メーカーという業種のことも知らないし、事務の仕事もやったことがない。水野は採用の権限を持つ立場にあるのだろうが、そもそもフロントで少し言葉を交わす程度の律子に対して何故そのような話を持ちかけたのか、さっぱり理解ができなかった。
「わしも今まで何人も部下を持っていて、それなりに人を見てきたつもりや。だからな、矢野さんがきちんと仕事をする人やというのはよう分かる。業界未経験でも周囲に目を配り、考えながら明るく仕事をしてくれる人が欲しいんや。そして矢野さんならできると、フロントでの働きぶりを見ていつも思っててん」
 それは、最高の褒め言葉だった。自分がその評価を受けるに値するかは疑問だが、一生懸命働いている姿をそのように言ってもらえて嬉しくない筈がない。けれど、だからと言ってそれを即答で受けられるかは話が別だ。まさかこんな風に仕事のオファーがくるとは予想もしておらず、心の準備なんて一切できていなかった。

「もちろん矢野さんはずっとホテルでキャリアを積んできてはるから、これからもその道を進むと言うならすっぱり諦める。でも、もしもこの先の進路を迷っているのなら、わしの話を選択肢のひとつに加えてみてくれへんか」
 そう言うと水野は胸ポケットから名刺入れを取り出し、律子の前に差し出した。
「どんな条件でも聞くとは約束できへんけど、できるだけ希望には応えたいと思ってるさかい、何か質問があれば気軽に連絡して。あかんかったら気にせず断ってくれてええから、次の宿泊の日までちょっと考えてみて欲しいんや」
「かしこまりました」
 律子は頷くと、両手で名刺を受け取った。
「閉館の話を聞いて、いてもたってもいられんでな。驚かせてすまなんだな」
 いつもの人好きのする笑顔で詫びると、やがて水野は自動ドアの向こうに消えて行った。
 気さくなおじさんだとばかり思っていたが、なかなかの押しの強さだった。新しい部署の責任者に就くということは、きっとああ見えてやり手なのだろう。そのような人に声をかけてもらったのだから、こちらも真剣に考えなければならない。律子は受け取った名刺をじっと見つめると、大切にポケットの中へ仕舞った。

 

2017/01/31

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