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散らない日葵



6. 大切な場所、ただし永遠に在るものではなく


 十一月一日は、朝から鉛色の雲が空を覆っていた。十三階建てのホテルの屋上に出れば手が届くのではないかと思えるくらい低く垂れこめた雲からは、いつ大粒の雨が落ちてきても不思議はない。

「おはよう」
 十時に律子が出勤すると、更衣室では浜崎が着替えていた。フロントのシフトは少しずつ時間がずれているので、出勤時に誰かと一緒になることは殆どない。けれども今日は全員出勤の為、律子と浜崎は早番でも遅番でもないシフトに入っているのだ。
「今日はどうして全員出勤なんですかね?」
「さあね。こんなことは過去にもないから想像つかないよ」
 もう何度目かになる問いを浜崎が投げかけてくる。ここ数日、同僚たちは誰かが上司から理由を聞かされているだろうと互いに探り合ったものの、結局誰も真相を知る者はおらず、もはやその質問は単なる挨拶代わりになり果てていた。浜崎も別に答を期待しているわけではなく、だから律子もさらりと流していた。あと数時間すれば、嫌でもすべてが判明するのだ。
「律子さん、わたし理由が分かったかも知れませんよ」
 間もなく明らかになるとはいえ、そこはやはりどうしても気になるもので、彼女は色々と想像を巡らせていたようだ。既に着替えを終えた浜崎は目を輝かせながらそう言った。
「へえ、どんな理由?」
 クリーニングから返ってきたばかりの制服に袖を通しながら、律子は後輩がどのような推理を繰り広げたのかを尋ねる。
「ずばり、改装です!」
 自信満々にそう告げると、浜崎はどうだと言わんばかりに律子を見つめてきた。あまりに得意げな表情なので、少し笑いそうになる。
「改装?」
「はい。同期に今日のことを聞いてみたんですけど、他のホテルは別に全員出勤じゃないんですよ。うちのホテルだけなんです。それなら理由は、偉い人が来るのかなと思ったんです」
「前に副社長が視察に来られた時は、別に全員出勤じゃなかったよ」
「視察じゃなく、わたしたちに伝えることがあって来られるんですよ」
 そう浜崎は断言する。どうやら彼女の中では、上層部の誰かが来るということは決定事項のようだ。
「なるほど。改装することを伝えに、誰か本社から来るのではないかと」
「そうなんです。ただの改装ならそこまでする必要はないと思うけど、大規模な改装で休館になるとしたら辻褄が合いません? うちのホテルはなかなかの古さですし、きっと間違いないと思います」
「浜崎探偵、なかなかの名推理ですな」
 律子がふざけてそう言うと、ありがとうございますと敬礼で返された。

 ソレイユホテル本宮中央は、律子よりも二歳年上の築三十三年だ。三十路を迎えて律子の肌トラブルが増えたように、この建物の老朽化も最近目立っている。もちろん壁紙やカーペットを張り替えるなどの改装は行ってきたが、部屋全体の古さは否めず、配管詰まりなどの頻度が年々高くなっているのだ。
「浜ちゃんの推理が当たっていたらいいなあ」
 もしも大規模修繕を行ってもらえるとすれば、これまでよりも顧客満足度を上げることができるだろう。いくらサービス向上に努めても、ハード面が充実しないと限界がある。
「実現したら、オーバーフローや空調故障が解消されますもんね」
「でも、全館休館になればその間はどこか他のホテルに行くことになるよ」
「それはそれで勉強になるし、いずれ綺麗な本宮中央で働けるなら全然構わないですよ」
 浜崎が夢見がちに呟く。彼女の言葉が実現するならば、まさにそれは理想的だ。
「本当に浜ちゃんの言うとおりになって欲しいよ……」
 祈るようにそう呟くと、律子は慣れた手つきで首にライトイエローのスカーフを巻いた。


 やがて時間になり、律子と浜崎は事務所へと向かう。そこには既に出勤していた辻内がいた。
「おはよう」
「おはようございます」
 前夜からの引継ぎ事項を確認すると、浜崎はフロントへと出て行った。既にフロントの頭数は揃っており、律子は終日デスクで事務作業をさせてもらうつもりだ。自分の席に着いてパソコンを起動させていると、辻内がFAX用紙を差し出してきた。
「さっきエージェントから電話があって、その団体の仮予約、決定になったってさ」
 ありがとうございますと言いながら内容を確認すると、それは先日料理長に時間外の夕食の受け入れの交渉をした企業団体であった。
「ラストオーダー後の夕食の受け入れなんて、よくシェフが了承してくれたな」
「メニューお任せで二十二時までに退店するという条件を出したら、あっさり受けてくださいましたよ」
 律子がそう説明すると、辻内がくっと笑った。
「矢野も攻め方が上手くなったな」
「攻めるだなんて、人聞きの悪いことを言わないでください」
「褒めてるんだよ」
 言葉とは裏腹に、辻内の表情にはからかいの色はない。だから律子は上司の言葉を素直に受け取ることにした。
「今月の予約数が前年同日比で下回っているので、何とか確定団体が欲しかったんです」
「うん、宿泊部にも料飲部にとってもありがたい話だよ」
「たまにはわたしもやるでしょう?」
 尊敬している人からの褒め言葉が嬉しくて、子供みたいに得意げな顔をしてそう尋ねる。いつものように茶化されると思ったのに、けれども辻内は優く笑って律子の言葉を肯定した。

「さすがは俺が見込んだ弟子なだけのことはある」
「見込んでくださっていたんですか?」
「矢野のことは最初からずっと、見込んでいたさ」
 憧れ続けた先輩からの不意打ちの褒め言葉。本当なら嬉しい筈なのに、けれども今日は、何故だか無性に切なく感じた。
「課長、雨が降るからやめてください」
「何を言ったって、あの空の様子じゃ今日は雨が降るさ」
「今わの際みたいなので、やめてください」
「いや、俺死なないし」
 やがていつもの掛け合いを繰り広げられる。慣れたテンポに律子はほっと安堵する。
「さてと、厨房へ料飲伝票を出しに行かなきゃ」
 嬉しい言葉に浮かれた気持ちを切り替えるようにそうひとりごちると、律子はボールペンを手に取った。


   ***


 午後になると、滝と小久保も出勤して来た。事務所の人口密度はどんどん高くなっているというのに、けれども総支配人の口からはまだ何もない。それどころか部長とふたり外出したまま、かれこれ二時間ほど不在にしていた。
「辻内課長、部長からお電話です」
 事務所に鳴った電話をワンコールで小久保がとる。どうやらそれは出先の部長からだったようだ。代わった辻内は短く何度かはいと頷いていたが、すぐに用件は済んだらしく電話を切った。
「これから本社からの通達があるらしい。夜勤明けメンバーおよび午前に出勤したメンバーは、今からレストランに移動してくれ」
 それだけ告げると辻内は再び受話器を取り、レストランとハウスキーピングに連絡をとっていた。昼食に出たとばかり思っていた総支配人と部長は、どうやら本社から来る誰かを社用車で空港まで迎えに行っていたようだ。ふと視界に入った浜崎は、自分の推理に確信が持てたのか小さくガッツポーズを見せている。けれども殆どのスタッフは、困惑の表情を浮かべていた。
「とりあえず、わたしたちはレストランへ行こう。滝くんと小久保くんはフロントをお願いね」
 ここでいくら戸惑っていても埒が明かない。今の律子のやるべきことは、とりあえず辻内の指示どおりに行動することだった。

 フロントに向かって右手に位置するバイキングレストランは、ランチタイムが終了すると、ディナーが始まるまで一旦クローズする。事前に部長から指示を受けていたのだろう。律子たちが店内に入ると既にテーブルが移動されており、シアター形式に椅子が並べ変えられていた。
 けれど、詳細を知らされていないのはレストランスタッフも同様のようで、緊張と戸惑いの入り混じった表情で席に着いている。やがてハウスキーピングのスタッフも何人かが清掃を中断して下りて来た。
「これは絶対、本社から偉い人が来られている筈ですよね」
 律子の隣に座った浜崎が、声を落としてひそひそと話しかけてくる。確かに総支配人からの報告で済む内容ならば、ここまで大掛かりにする必要はないだろう。
「改装してロビーもお洒落にならないかなあ。カッコ良いビジネスマンに受けるような、シンプルでクールなデザインとか良いですよね」
「妄想してるとこ悪いけど、うちは太陽をモチーフにしているからクールなデザインにはたぶんにならないよ」
「あー、そうでした」
 どうせ、都会的な雰囲気のフロントでスーツの似合うイケメンをチェックインする妄想でも繰り広げていたのだろう。しかしあいにくソレイユはフランス語で太陽を意味し、前身のホテルの名称は更にストレートに太陽ホテルだ。企業理想は太陽のような温かみのある空間の提供であり、仮に改装したとしても、浜崎が憧れるクールなデザインに変わる可能性は限りなくゼロに近いのだ。そこを指摘するとようやく現実に戻ったのか、浜崎はつまらなさそうに口を尖らせた。
「相変わらず浜崎はアホだな」
「たとえロビーが都会的な雰囲気になったとしても、それでドラマみたいな出会いは生まれないからな」
 前の席に座っていた夜勤明けのスタッフが振り返って、口を挟んでくる。声を落としてもさすがに浜崎の妄想話は聞こえる近さであり、突っ込みたくてうずうずしていたようだ。
「そうそう。というわけで浜ちゃんは、これからもイケメンを求めて合コンにいそしんでくれたまえ」
「ひどーい。今度の水曜にこの前の合コンで出会ったイケメンとデートなので、絶対落としてみなさんを羨ましがらせてみせますからね!」
 鼻息荒く宣言した浜崎の言葉に周囲の面々が吹き出した瞬間、前方の入口から総支配人が入って来た。そして後ろにいた人物を振り返り、恭しく中央へと案内する。促されるままにゆっくりと正面まで進んで従業員に向き合った人物は、ソレイユホテルの創設者であり、全国にソレイユグループを展開した社長その人であった。

「どうぞ皆さん、座ってください」
 社長だと認識した瞬間、全員が脊髄反射で立ち上がったものの、目の前にいる白髪の老人は静かにそう促した。
 社内報の写真などでその姿を目にしてはいるが、律子が実際に社長に会うのは自分の入社式以来だ。一代で全国展開するホテルチェーンにまで成長させた社長は高齢で、ここ数年は各ホテルの視察を息子である副社長が担っている。近いうちに勇退して副社長が社長に就任するだろうという噂も流れていたので、まさか社長自らが姿を現すとは微塵も予想しなかった。
 一体、社長の口から何が語られるのだろうか。律子はちらりと斜め前に視線を送った。一番端の席に座っている辻内は、表情を変えることなく、真っ直ぐに前を見つめていた。
 浜崎の言うとおり、このホテルが綺麗に生まれ変わるならばそれ以上にありがたい話などない。けれど律子は、この仲間たちとこれからも一緒に働いてゆけたらそれで良いと思い始めていた。時にはゲストからクレームを受け、残業の多さに愚痴をこぼしつつ、少しずつ成長しながらソレイユホテル本宮中央のフロントスタッフとして働くことこそが、律子のささやかな願いだった。
「今日は諸君に伝えなければならないことがあり、やって来ました」
 おもむろに社長が口を開く。その場は水を打ったように静まり返り、トップの落ち着いた深い声に従業員たちは耳を傾けた。
 ここ数週間、些細な違和感が律子の胸の奥に言いようのない不安を生み出している。彼女は無意識に両手を組んだ。そして祈るように強く握りしめる。どうか、どうか杞憂であって欲しいと、目の前の人物が言葉を発する瞬間を息を止めて凝視した。


「ソレイユホテル本宮中央は、来年三月をもって営業を終了します」
 けれど、律子の願いも虚しく、社長が告げた宣告は彼女のささやかな願いを残酷にも打ち砕いた。

 

2017/01/02

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