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散らない日葵



4. 自分の立ち位置、ならびに自分の役割


 ビジネスホテルに求められる大切な要素のひとつは、スピーディさだと律子は思う。もちろん例外はあるが、出張で旅慣れている客はシンプルなサービスを求め、スムーズに事を運ぶことを何よりも重視しているようだ。
「おい、何で用意できていないんだよ!」
 苛立った声が、朝のロビーに響き渡る。最寄りの郵便局の場所を尋ねられた律子は地図を広げて場所を説明しながら、隣のカウンターで対応している入社二年目の後輩の様子を伺っていた。
「早くしろよ。宿泊代と夕食代の領収書は別に用意しろと昨日言っておいた筈だろう」
「も、申し訳ございません……」
 人差し指でコツコツとカウンターを鳴らす仕草がゲストの苛立ちを表し、それが余計にフロントスタッフの焦りを生む。道案内を終え笑顔で女性客を送り出した律子は、完全にパニックに陥ってしまった後輩の様子に、さっと隣のカウンターへ駆け寄った。
「お客様、私共の伝達ミスでお待たせしてしまい、大変申し訳ございません。すぐに二枚の領収書をご用意いたします」
 既に開かれている宿泊システムの会計ページを覗き込み、律子は念の為金額に間違いがないかを尋ねる。横柄に頷くのを確認すると、すぐに宿泊代と夕食代に計上を分けて印刷ボタンをクリックした。
「大変お待たせいたしました。こちらが領収書でございます」
「まったく、待たせやがって」
 差し出した領収書の内容を一瞥すると、奪うように受け取って中年の男性客が立ち去って行く。怒った背中に向かってもう一度謝罪の言葉をかけると、律子は丁寧に頭を下げた。

「……すみませんでした」
 男性客の姿が見えなくなったところで、同じく頭を下げていた後輩の浜埼が小さな声で謝ってきた。
「ここでドラッグしたら、計上を分けることができるからね」
「はい」
 マウスのカーソルを合わせて説明をする。以前にも教えた筈だが、頻繁に使用する機能ではない上に怒鳴られて頭が真っ白になってしまったようだ。素直に頷くも、その表情には不満の色が滲んでいる。律子はそっと溜息をつくと、マウスをクリックして変更履歴を確認した。
 ソレイユホテルで導入しているシステムでは何らかの処理を実施するたびに各自のパスワードを入力する仕組みになっており、誰が予約を入力して変更したか、チェックインを担当したのは誰か、すべて履歴が確認できるようになっている。何かイレギュラーが発生した場合は、いつ誰が処理したのかをここで確認するのだ。
「小久保くん、ちょっといいかな」
 律子はチェックインの担当者名を確認すると、忘れ物の問い合わせを受けて事務所に下がっていた小久保に声をかける。いつもの子犬のような表情で、ひょこひょことフロントへ戻って来た。
「このゲストをチェックインしたのは小久保くんなんだけど、領収書を分けて欲しいというリクエストを受けた覚えはある?」
「えっと、確か夕食代と分けて発行できるかと聞かれました」
 さらりと答える小久保に、浜崎が隣であからさまにむっとする。
「それで、小久保くんはどうしたの?」
「寺本マネージャーに確認したらできると言われたので、お客様にはそのように答えました。あのう、それが何か?」
「……何でそこまで聞いて準備してないのよ」
 不貞腐れた声で浜崎がぼそりと呟く。彼女は上手く対応できなかったことを律子に謝罪はしたものの、ゲストに一方的に責められて、自分がとばっちりを受けたという意識を拭うことができないでいるのだ。
「ちょっと浜ちゃんは黙っていて。小久保くんは、それでそのままにしていたの?」
「夕食をうちのレストランでとるか外に行くかはその時点では決めておられなかったですし、処理はチェックアウトの時にでもできるから特に何もしなくてもいいと言われたので……」
 まるで耳と尻尾をしょんぼり垂らした捨て犬のように、すみませんと小さく謝罪する。黙っていろと諫められた浜崎は言葉を発しなかったけれど、代わりに盛大に溜息をついた。

「チェックインの時点では分からなくても、あとでレストランから部屋付けの伝票が回ってくるから分かるよね? 確かに寺本マネージャーの言うとおり処理はチェックアウトの時にでもできるけど、引継ぎがあればわたしたち早番のメンバーもスムーズに対応できるから、これからは備考欄にでも入力しておいてくれるかな」
 律子や滝ならばその場で臨機応変に対応できる。けれどもフロントには、経験の浅いスタッフもたくさんいるのだ。
「備考欄に入れるひと手間で、サービスが変わってくるの。こちらから先に領収書は別々ですねと確認することで、きちんと引継ぎがなされているなと、お客様はそれだけで安心されるのよ」
「はい」
「小久保くんは基本的なことはきちんとできているから、これからはどんどん先を読んだ処理を心がけるようにしてね」
 別に小久保が勝手に判断したわけでなく上司に指示を仰いでいるのだから、新入社員としては何も間違っていない。けれど、今から仕事の手間を惜しむ癖をつけて欲しくなくて、敢えて厳しい要求をする。
「それから浜ちゃん。もちろん引継ぎは大切だけど、バタバタしてたら誰だって忘れることはある。そんな時には、できるだけお客様に気づかれないよう冷静に処理してね。浜ちゃんは二年目で応用力もしっかりついているんだから、内心聞いてないよと思いながらも、さも最初から分かっていたかのように焦る気持ちを隠して余裕の笑みで対応して欲しいの」
 浜崎が憤る気持ちも分かる。しかしながら誰かを責めていても、彼女の成長には繋がらないのだ。浜崎は不満が顔に出やすい性質ではなるが、元来素直な子だ。律子の言葉に力強く頷いてくれたので、ほっと胸をなでおろした。

「ホテルは二十四時間常に稼働しているから、良いサービスを提供するにはひとりだけの頑張りではどうにもならないの。小久保くんがチェックインした人を浜ちゃんがチェックアウトしたり、わたしが受けていたリクエストを誰かに対応してもらったり。だから、どんな些細なことでもきちんと引継ぎをしていかないとゲストの満足は得られない。お客様に関する情報をスタッフ全員が同じように共有できるホテルこそが、理想のホテルだとわたしは思うの」
 誰かのミスのせいで、ゲストからお叱りを受けることがある。自分のミスのせいで、同僚に迷惑をかけてしまうこともある。けれども逆に、チームワークのおかげでゲストからお褒めの言葉を受けることもあるのだ。
「大変なことも多いけど、チームで働いていると喜びも倍になるんだよ」
 そこまで語ったところで、ふと我に返る。熱弁をふるい過ぎたと律子は急に気恥ずかしくなり、ただ聞いていただけの後輩ふたりに、そろそろおしゃべりは終わりだと業務に戻るよう促した。けれどもそんな先輩の気持ちはお見とおしだったようで、年若い後輩たちにはくすくすと笑われてしまった。

 そのあとのチェックアウトは何事もなく、朝の業務は順調に進んでいた。十時上がりの小久保は既に退社し、フロントでは律子と浜崎が手分けして鍵のチェックと釣銭の確認を行っている。
「矢野さん、来月のシフトできたのでいつものところに置いておきますね」
 不意に仕切りのカーテンが開き、事務所で仕事をしていた滝が顔を覗かせた。滝の担当はシフト作成を含む勤怠管理だ。かつて律子も担当したことがあるが、各時間帯に決まった人数を割り振って作成していかなければならないシフト作成はパズルのようで、なかなか骨が折れる。
「お疲れ。スムーズに組めた?」
「来月は公休希望が出されている日が分散していたので楽でした。ただ、十一月一日は全員出勤になるようにとの指示が出たので、そこの調整がちょっと大変でしたね」
「全員出勤? 何か研修の予定でもあったっけ?」
「俺が知る限りでは何もないです。ただ、部長がそうしろと……」
 思わず律子は滝と目を合わせる。限られた人数でシフトを回してゆくには日々の出勤人数を制限せねばならず、研修など特別な日しか全員出勤になることはない。
「研修なら早い段階で本社から通達がある筈だし、消防訓練は先月実施したばかりだし」
「部長に聞いても理由を濁すんですよ。もしかしたら、本社から偉いさんでも来るんですかね」
「まさか。前に副社長が視察に来られた時だって、当日シフトに入っていたメンバーだけで対応したじゃない」
 それなりに長く勤めている滝や律子ですらはじめてのことで、腑に落ちないまま、結局ふたりは理由を追及することを諦めた。
「まあ、当日になれば分かるか」
 その時はまだ、律子は何も深くは考えていなかった。


   ***


 ふたりきりになりたいと思う時ほど、なかなか思いどおりにはいかないものだ。
 ここ数日、律子はマネージャーの寺本とふたりで話す機会を探っていた。けれども彼はフロントのシフトに入っている日でも事務所に下がっていることが多く、事務所内には部長や総支配人がいるのでなかなか話しにくい。そんな中、休憩室で律子が昼食をとっていると、残業していた寺本が入って来た。どうやらコーヒーを買いに来たようだ。
「ふわあ、眠い」
「お疲れさまです。まだ上がれないんですか?」
「ああ。来客予定があるんだけど、三十分遅れるって連絡が入ってさ」
「うわあ、ご愁傷さまです」
 律子がこの職場で一番長く時間を共有しているのは寺本だ。総支配人や部長などの管理職は数年おきに異動があり、律子が入社した時の先輩たちも皆、異動したり退職したりでいなくなってしまった。当時の顔ぶれで残っているのは寺本と彼の一年後輩である辻内だけだが、その辻内は途中四年ほど九州に赴任していたので、十年間ずっと一緒に働いてきたのは寺本だけだ。
「寺本マネージャー」
「うん、何だ?」
「ちょっとご相談なんですけどね……」
 夜勤明けで残業している上司に言いづらいが、この機会を逃すといつふたりになれるか分からない。それにあまり時間が空いてしまうと、内容的に余計に言いづらくなってしまいそうだ。いつもの穏やかな笑みを浮かべる寺本に、律子は渋々口を開いた。

「少し前に、宿泊代と食事代の領収書を分けることができるかどうか、小久保くんから質問されたことを覚えていらっしゃいますか?」
「うーん、そんなこともあったっけなあ……」
 コーヒーをごくりと飲みながら、寺本がのんびりと答える。
「アウト時に処理できるから大丈夫だよって答えてくださったみたいなんですけど、早番に入るのは若い子が多くて、ちょっと戸惑ったみたいなんですよ。寺本マネージャーやわたしたちが当たれば問題ないんですけど、若い子たちがもう少し経験積むまでの間は念の為、備考欄に入力しておいていただけると助かるなあと思って」
「そうか、そうだな。了解」
 そう言うと、寺本はにこりと笑う。つられて律子も笑みを浮かべた。
 昔からこの人はこうなのだ。穏やかな雰囲気でゲストを和ませるので、決してクレームは起こさない。けれども些細なひと手間を面倒がるので、彼が夜勤に入った翌朝はたまに、それくらいやっておいてよと思わず愚痴りたくなることがあるのだ。致命的な伝達ミスではない。ただ、そこを徹底できなければ良いサービスを提供できないと、いつも歯がゆく思うのだ。
「矢野は偉いな」
「どうしたんですか、急に。おだてたって何も出ませんよ」
「褒め言葉は素直に受け取りなさい。俺は気が利かないから、矢野や辻内のことをいつも尊敬しているんだよ」
 ふざけて返せば、真面目な答えが返って来る。思わず黙って見つめると、寺本はのんきに欠伸をしながら腹が減ったとひとりごちた。

 社会には様々なタイプの人が属しており、寺本はいつも淡々としていてあまり物事に執着しない性質の人間に見えた。決して仕事ができないわけではないが、頼りになるとは言い難い。律子が右も左も分からない新入社員の頃、基本的には指導担当である辻内の指示を仰いだが、彼が接客中だったりすると当然他の先輩に質問することになる。最初は何も分からなかったが入社半年もすれば、誰が頼りになって誰が頼りないか、新入社員なりに見えてくる。優しいけれど「適当でいいよ」が口癖の寺本には、自然と質問する機会は減っていった。
「チョコ食べますか?」
「矢野はいつもチョコ持ってるな」
「残業中に集中力が切れたら、糖分補給が不可欠なんですよ」
 物腰柔らかな寺本の接客は、入社した時から今も変わらず尊敬している。ただ現実問題として、勤続年数と仕事レベルが比例しないのは事実だ。入社二年目の浜崎もきっとそれを察していて、彼の指示で小久保が何もしなかったことを聞き、不満を露わにしたに違いない。若手に舐められるのは問題外だし、仕事の手を抜くことを覚えられても困る。だから律子は、浜崎の不満を放置しておくわけにはいかなかった。
 本当は上司がそれとなく指導してくれるのが理想だが、一年後輩の辻内の方が先に課長に昇進していることこそが、会社としての寺本の評価なのだろう。部長に相談するには大事になり過ぎるし、本来なら課長クラスに相談するのが妥当だろうが、辻内も付き合いの長い先輩には意見しにくいに決まっている。課長職に就いた時点で色々と覚悟はしているだろうが、恐らく寺本に関しては、律子が軽いノリでお願いすることが最良の策に思われた。だから何かあれば、こうやってふたりきりの時を見計らって話すのだ。
「旨いな、これ」
 律子が差し出したチョコレートの箱から一粒口に放り込んだ寺本が、幸せそうに笑う。
 いつも優しい雰囲気を纏うこの先輩のことは人としては好きだが、律子が理想とする仕事のベクトルとは決して同じではない。律子の望む方向を指し示しているのは、いつもずっと辻内なのだ。

「おはよう」
 不意に休憩室の扉が開く。振り返ると、今まさに律子が思い浮かべていたその人物が立っていた。
「えっ、あれ。こんなに早くどうしたんですか?」
「本社に提出する書類の期限が明日までだから、少し早めに出勤した」
 今日は夜勤のシフトだったのでまさかこの時間に出社して来るとは思っておらず、動揺してしどろもどろになりながら律子が尋ねると、辻内はコンビニの袋に入った夕飯用の弁当を冷蔵庫に放り込みながらそう答えた。
「さてと、そろそろ山田さんが到着する頃かな。矢野、チョコごちそうさん」
 すると、寺本がそう言いながらコーヒーの空き缶をゴミ箱に捨て、休憩室を出て行った。

 残されたふたりの間に沈黙がおちる。チョコレートの箱に視線を感じたので、律子はそっと差し出した。
「チョコ、食べますか?」
「いや、いい。家出る前にチョココロネ食べたから」
 寝起きなのか、今日は何故だか機嫌が悪い。けれども、素っ気ない態度のくせにチョココロネなどと言い出すので、そのギャップに思わず律子は脱力した。
「何だよ?」
「いえ、チョココロネを食べる課長を想像しただけです」
「何でチョココロネを食べる俺を想像したら、そんな顔になるんだよ」
「すみません、ちょっと萌えました」
「嘘つけ。どこからどう見ても小馬鹿にした顔じゃないか」
 そんなことはないですよととぼける律子を、辻内がじろりと睨む。ああ、いつもの調子だとほっとする。この気楽な掛け合いをずっと続けられたらいいなと、律子は心の内でただそれだけを願っていた。

 

2016/12/11

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