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散らない日葵



2. 気のおけない仲間、そして大切な人


「すみません、遅くなりました」
 案内された個室に入った律子は、既に宴を始めていた面々に軽く頭を下げる。空いている端の席に座ると、羽織っていたカーディガンを脱いだ。台風が過ぎてから一気に季節が進み、もうすっかり秋だ。今年はいつまでも残暑が厳しかったものの、さすがに今は上着を持っていないと朝晩は肌寒い。
「矢野さん、お疲れさまです」
 そう言いながら、小久保がドリンクメニューを手渡してくれた。律子はさほど酒に強い方ではないが、仕事のあとの飲み会では冷えた生ビールが飲みたくなる。接客業は常に誰かと話しているので、結構のどが渇くのだ。オーダーを告げると、下座に座っている小久保がすぐに店員に声をかけて注文してくれた。
「では、九月の予算達成を祝して乾杯!!」
 冷えたビールが注がれたジョッキが律子の手に渡ったことを確認すると、上司の乾杯の音頭を合図に五人がグラスやジョッキを合わせた。
 常に誰かが勤務している状況にあるホテルでは、全員参加の飲み会など不可能だ。けれどもわいわい飲むのが好きな面子が多いので、シフトの合う者だけが集まる飲み会は月に一回くらいのペースで開かれていた。

「律子、お腹すいてるでしょ。肉食べな」
 そう言いながら、隣に座っている越野真理がサイコロステーキを取り皿に入れてくれた。
「わーい、ありがとうママ!」
「誰がママだよ。わたしは可愛い息子しか産んでない」
 顔をしかめながらも、肉の横に綺麗にサラダまで盛り付けてくれる。口は悪いけど優しいお母さんだなあと、律子は思わずにやにやしながら皿を受け取った。
 真理は律子と同じく、十年前にソレイユホテルに入社した同期だ。ソレイユホテルでは毎年数十人の新卒採用を行っているが、チェーンホテルの為に配属先は全国に散らばり、新入社員同士が同じホテルに配属されることは殆どない。勤務地の希望は考慮されるので律子は地元のソレイユホテル本宮中央を希望したのだが、真理は隣の市に位置するホテルに配属されていた。同期というのはどこか特別で、本社での新人研修を終えてそれぞれのホテルでの勤務が始まってからも、ことあるごとにメールなどで連絡をとり合っていた。けれども会えるのは年に一度のフォローアップ研修くらいで、真理は唯一、頻繁に会える距離にいた同期であった。大きなクレームを受けて落ち込んだ時、ミスをして辞めたくなった時、理想と現実の間で葛藤していた時。何かあれば連絡をとり、互いに励まし合ってきた特別な存在なのだ。
「カズ君はおばあちゃんち?」
「そう。お義母さんが見てくれていて、旦那に仕事終わったら迎えに行ってもらうの」
 数十人いた同期のうち、今もソレイユホテルに残っているのは片手で足りる数だ。律子もそのうちのひとりなのだが、真理は入社六年目で結婚退職した。その後男の子を出産して子育てに専念していたのだが、息子の保育園入園を機に、二年前からパートとして仕事復帰していた。結婚後の新居がソレイユホテル本宮中央にバスで一本と便利なので、律子に求人がないか相談の電話があり、上司に話したところ経験者は大歓迎だと面接後あっさり採用が決まったのだ。

「おーい、矢野。ちゃんと食ってるか? 食わなきゃ大きくならないぞ」
 律子が真理に子供の様子を色々と聞いていると、テーブルの向こうから声をかけられた。
「もりもり食べてますよ。明日あたり身長が伸びて、長身の大人の女性になるかも知れないので惚れないでくださいね」
「そうか、そりゃあ楽しみだ」
 わざと棒読みで返してくる辻内に見せつけるように、律子は真理が盛り付けてくれたサイコロステーキを口に放り込んだ。安さが売りの居酒屋の肉は硬く、咀嚼してもなかなか噛み切れない。
「ちょっと課長、うちの律子を子供扱いしないでくださいよ」
 そんなふたりのやりとりに、真理が律子をぎゅっと抱き寄せながら上司に対して抗議した。昔から酔うと彼女はスキンシップが多くなるのだ。
「子供扱いしてないさ。矢野ほどのしっかり者はいない」
「そうですよね。いつも課長は律子に面倒見てもらっていますからね」
 真理が切り返すと、滝と小久保が思わず吹き出した。じろりと辻内が睨むと小久保は慌ててメニューを眺めるふりをしたが、滝は一向に構わない。それどころか、上司に対して淡々と追い打ちをかけてくる。
「課長は大きい子供みたいですもんね」
「あっ、滝くんそれ上手いこと言った!」
 酒を飲んでもポーカーフェイスの滝がぼそりとそう言うと、真理がぽんと手を打って納得した。
「おい、おまえら。忘れているかも知れないが、俺は上司だぞ」
「大丈夫です。かろうじて覚えています」
「あっ、いけない。わたしはうっかり忘れてた」
 真理と滝は気が合うらしく、いつも誰かをいじっている。どうやら今日は上司である辻内をロックオンしたらしい。真面目な小久保はそわそわとこちらを見てくるが、デリカシーのない男は少しはやり込められるが良いのだと、律子は気にせず黙々と箸を運んでいた。

「や、矢野さん……」
「いつものことだから放っておいて大丈夫。それより小久保くん食べてる? この焼き鳥美味しいよ」
 そう言いながら、小久保の目の前に串盛り合わせの皿を移動させていると、ついにテーブルの向こうから辻内が助けを求めてきた。
「おい矢野。先輩が苛められている時に、何のんきに焼き鳥食ってるんだよ」
「欲しいですか?」
 辻内の好物であるつくねを、目の前で見せつけるように差し出す。受け取ろうと手を出した瞬間にさっと引いたら、舌打ちされた。
「自分は大きな子供のくせに、わたしをチビというだけで子供扱いするからこうなるんですよ」
「別にそういうつもりじゃないし。というか、俺が子供だという前提で喋るのやめろ!」
 知ってる。律子のことをからかったわけじゃなく、何というか、条件反射でついいじってしまう。ただそれだけだ。先輩後輩としての付き合いが長い分、他の人よりも気安さを感じてくれているのだと思う。
「ねぎまも食べますか?」
「うん」
「はい、どうぞ」
 今度は素直に手渡すと、いい年したおじさんが嬉しそうな表情で受け取った。やっぱり子供だ。
「律子は甘いねえ……」
 隣で真理が呆れたように呟いた。律子にだって自覚はある。けれども少年のような笑顔を見せられたら、結局いつもどうしようもないのだ。

「あっ、でも、課長は仕事中はカッコ良いです。この前の台風の時とか」
 部下三人にやり込められている上司を気の毒に思ったのか、若干わざとらしい感じで小久保が話題を変えてきた。何とか上司のフォローをしようと試みたようだが、残念なことにその言葉には思わず本音が漏れ出ていた。
「おい小久保、仕事中はって何だよ? 俺はいつでもカッコ良いだろ?」
「あっ、いえっ、はい……」
 分かりやすく狼狽した小久保は、見事にあわあわしている。職場の全員が気づいてはいるが、今年の新入社員はかなりの天然なようだ。
「みんなカッコ良かったんじゃないですか? 九月の予算達成はちょっと厳しいかなと思っていたのに、あの台風の日に売上が大幅に伸びたおかげで到達できたんですから」
 捨てられた子犬みたいにおどおどした小久保が可愛くてもう少し見ていたかったけれど、何だか可哀想になってきたので助け舟を出す。するとあからさまに嬉しそうな顔をして、激しく振っているしっぽが見えるかのようだ。
「僕はカッコ悪かったですけど、滝さんと辻内課長は本当にすごかったんですよ。もう動きが止まることなく、どんどんチェックインをさばいていくんです」
「課長はね、忙しくなると変にテンション上がっちゃうんだよ。長蛇の列さばいている俺カッケーとか思いながらチェックインしてるから」
「ああ、それ分かります」
 律子がそう指摘すると、心当たりがありすぎるのか滝が深く頷いた。
「何だよ矢野、おまえだって俺と一緒のくせに!」
 悔しそうに口を尖らせながら、辻内が子供みたいに抗議してくる。
「ええ、そうですよ」
 別に否定などしない。律子は辻内と同じで、どうやら彼もそのことを覚えてくれていたようだ。
「並んでいただいるゲストをこれ以上お待たせしたくないと思うと、そりゃあチェックインは燃えますよ。ゲストが名前や住所を記入している間に、いかに無駄な動きを無くしてスムーズに準備を整えるかが勝負で。それを滞ることなく、並んでいるすべてのゲストに対して行えた時の達成感。ああ、今わたし仕事デキル女みたいだわって、何だかテンション上がってくるんですよね」
「そうそう! 列が長くなればなるほど、早く案内してゲストの満足感を高めてやるっていう闘志が湧いてくるんだよな」

 けれどもそのような心理状況は、他の人にはあまり共感を得られないらしい。心なしか、滝は冷めた視線をこちらに向けてくる。
「そう言えば去年ゲリラ豪雨で電車が止まった時も、遅番の矢野さんと泊まりの辻内課長が変なスイッチ入って、すごい助かったけどすごい面倒だったって誰かが言ってたなあ」
「何かそれ、その場にいなくても容易に目に浮かぶわ」
「チェックインの長蛇の列を予想以上に早くさばけたらしく、ふたりでハイタッチとかして称え合っていたそうですよ」
「アホ教官の弟子は、アホ弟子ってことだね」
 真理の言葉に、誰がアホだよとふたり揃って噛みつく。すると、あんたたちだよと冷ややかに返されてしまった。
「越野と滝は冷たいな。やっぱり俺のことを分かってくれているのは、りっちゃんだけだ」
 そんな上司の戯言に、律子の心はとくりと跳ねた。そしてそのことが急激に虚しくなる。弟子なのだから仕事に対する姿勢を一番理解しているのはある意味当然で、けれどもそれ以外のことは何も知らないのだから。

 やがて、滝と真理の会話をぽかんとした表情で聞いていた小久保が、会話が途切れた隙をみて口を挟んできた。
「あのう、弟子ってどういうことですか?」
「小久保くんと滝くんの関係と同じよ。律子が新入社員の時、辻内課長がOJT指導担当だったってこと」
 律子が答えるより先に、真理が説明してくれた。律子が新卒で入社した時に仕事を一から十まで教えてくれたのが辻内で、当時他のホテルにいた真理とはよく互いの指導担当の話をしていたのだ。
「でも、辻内課長は確か九州にいらっしゃったのでは?」
「そうだよ。課長はわたしが入社して四年目の時に異動して、五年くらい九州にいて、去年再び異動で古巣に戻って来たの」
 ソレイユホテルでは、基本的に引っ越しを伴う転勤があるのは部長職以上で、それ以下は異動の辞令が下りても通勤圏内であるのが通例だ。けれども辻内は、博多のホテルのスタッフが妊娠や病気などで一気に辞めて社内公募が出された際、あっさりと手を挙げて行ってしまったのだ。そうして向こうで着実に昇進し、昨年の年明けにこのホテルへ課長として着任して、律子の上司として再び一緒に働くことになったのである。
「どうせ独り身だし、一度くらいは知らない土地で働いてみるのも面白いかと思ってな」
「へえ、すごいですね」
「カッコ良いだろ?」
 小久保に対して得意気な表情を見せる辻内をちらりと見やりながら、律子はすっかり泡の消えたビールをごくりと飲んだ。
「ところで、矢野さんは本宮中央に何年いらっしゃるんですか?」
「おい小久保。おまえ、散々俺のことカッコ良いと言いながら今の話はスルーかよ!」
 天然わんこに憤慨している大人げない上司を眺めながら、真理が隣で爆笑している。普段あまり表情を変えない滝も肩を震わせていた。

「わたしは入社十年目。異動もなかったから、本宮中央では寺本マネージャーの次に長いかな」
「ええ!?」
 律子がそう答えると、小久保は目を大きく見開いて驚いた。それはどういう意味のリアクションかと、後輩の顔をじろりと睨む。
「違うんです。矢野さん若く見えるから、まさかそこまで社歴が長いとは思っていませんでした」
 そういうことか。小久保の言葉に、律子は苦笑いを浮かべた。これまでも新しく入ってくる社員やアルバイトたちは、律子の社歴を聞くと必ず驚いた表情を見せるのだ。すると辻内がどこか懐かしむような表情で、ろくでもない昔話を語り始めた。
「矢野が入社して来た時は小さくて可愛くてな。俺たちはみんな、フロントカウンターから顔が出るかと心配していたんだ」
「そんな心配不要ですから」
「もしもカウンターに届かなければ、俺が踏み台作ってやろうと思っていたんだぞ」
 当時の先輩方は、そんな心配をしていたのかと律子は溜息を吐く。まあ、主にしていたのはテーブルの向こう側で笑っている男なのだろうが。
「いいなあ、律子は。若く見られるなんて羨ましいよ」
 じっと律子の顔を見つめながら、しみじみと真理が呟く。確かに、身長が低く年相応の大人っぽいファッションが似合わない童顔の為、律子はいつも年齢より若く見られる。そして恐らくそれは、良いことには違いないのだろう。
 けれども彼女は年相応に見られたかった。辻内が口にする「可愛い」という言葉は、小動物に抱く感情とイコールだ。それは決して異性に魅力を感じた時に用いる言葉ではなく、彼は律子とは正反対のすらりとした大人の女性が好みのタイプなのである。そして律子は、その事実を誰よりもよく知っているのだった。

 

2016/11/26

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